• プリント

国連児童基金(UNICEF)親善大使 黒柳 徹子 さん

今回ご紹介するのは、2009年に国連児童基金(ユニセフ)親善大使としての25周年を迎えられた、女優の黒柳徹子さんです。
ますます精力的に多方面で活躍される黒柳さんの目に映る、ユニセフの活動とその現場を、皆さんも一緒に覗いてみませんか。

un_interview_photoプロフィール

1953年より女優として活躍し、ユニセフ親善大使には1984年に任命される。それ以来毎年開発途上国を訪問し、テレビの特集番組などで日本の方々に途上国への支援を訴えている。同氏への募金額は2009年5月末現在で約45億円にのぼり、2003年春には親善大使としての活動を高く評価され、勲三等瑞宝章を受章した。社会貢献活動としては、「日本ろう者劇団」に対する技術的財政的支援も行う。

 

― 2009年はネパールを訪問されたと伺っています。現地で印象に残ったことはありましたか。

まずネパールと言えば、登山する方の映像が映りますよね。ものすごく空気が綺麗で穏やかな国だと思ってたのですけど、内戦が10年も続いて国は疲弊して、子どもの約半分が栄養失調、国民の3分の1が本当に大変な貧困、平均年収は3万円。子どもがすごくいっぱい、5歳くらいから労働しているんです。

un_interview_photo01

© UNICEF Tokyo/2009

私が一番辛いと思ったのは、胸まで川の中に入って、砂を背中に背負っている袋の中にズッシリ入れてもらって、それからゴロゴロしたところをずっと登って運んでいく子どもたちの姿ですね。それを朝5時ぐらいからやっていて、学校へ行かれなくなっちゃうので、仕事の合間に2、3時間でも読み書きするような場所を作ってユニセフがサポートしているのです。ネパールにも義務教育があるそうですけど、やっぱり貧しければ行かれないですからね。そういった意味では本当に日本は恵まれてるとは思いますし、ビックリしましたね、そういうこと知らなかったので。ちなみに一回、砂運んで7円です。

「一人でも二人でも、子ども達が希望を持って生きられるようにしてあげられたらいいなって思ってます」

25周年式典において、『窓ぎわのトットちゃん』をきっかけとして緒方貞子JICA理事長の紹介で親善大使になられたと仰っていましたが、25年間活動された中で一番楽しかった・嬉しかったこと、あるいは辛かった・苦労したことは何ですか。

内戦、干ばつ、民族同士の争いで100万人が殺されるなど、困窮している国しか行っていないので、子ども達のギリギリの、生きるか死ぬかっていう状態を見てきた25年間とも言えると思うんですね。ですから、あんまり楽しいっていうことは…。

© UNICEF/NYHQ2005-0298/Estey

© UNICEF/NYHQ2005-0298/Estey

内戦前後のアフリカの国々へ行きましたけど、目の前でお父さんが殺されて、お母さんはレイプされてお姉さん達と一緒に連れてかれちゃって、自分だけ置いてかれる時に、両腕を切り落とされた女の子なんてアンゴラにいたりしたのですけど、そういう風になった子どもはどうやってこれから生きていくのだろうって思いますけれども、どの子もみんな必死で、めげずに生きようとしている。そういう子ども達を見た25年って言えるので、どれが一番っていうのはちょっとないんですね。

ただ、もし親善大使にさせていただかなかったら、もっとのんびり、芸能人で暮らしてたと思います。でも、世界の約90%近くの子ども達がそういう状況の中で暮らしているっていうことをこの25年間に知ることが出来たのは、自分にとっては、有難かったと思ってます。それでできることなら、一人でも二人でもいいですから、子ども達が希望を持って生きられるようにしてあげられたらいいなって思ってます。

― 1989年のアンゴラのように、実質的には内戦が続いていた地域なども訪問されていますが、危険な目に遭ったことはないのでしょうか。また、どうして義務ではないのに毎年欠かさず途上国を訪問されるのでしょうか。

一番危なかったのはボスニア・ヘルツェゴビナへ行ったときですね。通りかかった小さな町の警察がユニセフの借りた大きいバスを略奪するために、運転手を3時間、警察署の中でなんか知らないけど怒鳴って、私達はバスの中で待ってたんですけど、何回も中から人が来てね、カメラの数を数えてったりするんですよね。何だかんだって3時間たって、まぁ許されたんです。とにかく運転手さんも出されたんですけど、向こうが用意したすごく小さいバスにギュウギュウ詰めにされて、結局バスを取られちゃったんです。後でお詳しい方に聞いたら、殺されないだけよかったって。私達がそこでいなくなっても、黒柳徹子さん達は行方不明ってことで終わっちゃうわけですから。

やっぱり一番怖いのは自動車事故ですよね。一回コートジボワールで自動車事故があったんです。私は大丈夫だったんですけど、後ろにいた記者の方がね、もうすごい怪我で。3年たってもまだリハビリしてて杖ついてらっしゃるという…。道が悪いっていうだけじゃなしにね、「ゲリラに狙われるかもしれないからこの10時間は全力で走ってくれ」なんていうとこがあるんですよね。

危険な場所に毎年行くのは、やっぱり、そこが子ども達が一番困っているところですからね。私達は1週間くらいだけですけど、そういうところに住んでる人は日常的にそういう目に遭ってるわけですから。でも、ユニセフが、極力私が危険な目に遭わないようにして下さっているっていう信頼感がひとつありますし、その国が大体護って下さいます。モザンビークとかアンゴラでは、軍隊がついた時もあります。それでも子ども達を見て欲しいってお思いになるのですから。

― 訪問の様子を記された『トットちゃんとトットちゃんたち』の中で一番印象に残ったのが、1986年のインドでの破傷風の男の子の話です。詳しく聞かせていただけますか。

破傷風は傷口から入る病気です。予防接種1本で助かるんですけど、インドでとても多くって、体中の筋肉が硬直して、高熱が下がらない。日の光とか電球の光とかが当たると、弓なりにそって痙攣する病気なんですね、ほんとにたちが悪い病気だなって思いましたけど。それで死にかけていた10歳くらいの男の子がね、目を開けて私を見てたんですね。先生が触って御覧なさいって仰ったので触ると、もう本当に足がカチカチで、ミイラみたいになっちゃってたんですね。その子が私を見てたから、小さい声でその子の耳元で、「先生も皆一生懸命やって下さるから、あなたも頑張って生きようとしなくちゃだめなのよ」って小さい声で言ったんですね、日本語で。そしたらその子が、喉の奥でウウーって何か言って、喉の筋肉とか、唇とか舌とか、全部硬直しちゃってるから物が喋れないって分かったんで、看護婦さんに「この子、今なんて言ってるんですか」って聞いたんです。そしたら、今死にかけてるその子どもがね、私に、「あなたのお幸せを祈っています」と言ってますって。

「子どもは可哀想です。大人は死ぬときに痛いとか苦しいとかいろんなこと言うのですけど、子どもは何にも言わないのです。周りの大人を信頼して、死んでいくのです」というタンザニアの村長さんの言葉を分かってるつもりだったのですけど、やっぱり死ぬ時でも自分が苦しいとも言わずに、あなたのお幸せを祈っていますなんて言うのが子どもなんだなって、こんなにも純粋なものなんだなって思って…。そのとき親善大使になって3年目だったのですけど、こういう子どもがいる以上はずっと続けていこうって、なおのこと思った、ひとつのきっかけになったことだと思います。

「子どもには敵も味方もない。それがユニセフの根底にあると思います」

― 25年間の訪問で、ユニセフだからこそできるということはありましたか。

© UNICEF/NYHQ2006-0720/Brioni

© UNICEF/NYHQ2006-0720/Brioni

アフガニスタンでの活動ですよね。はじめ行ったときは夏だったんですね、9・11の丁度一ヶ月前。夏の暑いとき行ったら50度ぐらい。それから冬の寒いときは零下25度にまでなるのです。だから難民キャンプの泥の上に座ってる子ども達は死んじゃうんですよ、寒くて。でも、アフガニスタンのユニセフは「一人も死なせません」って私に約束したんですね。

空爆で外国人は全部外へ出なきゃいけなかったんですけど、ユニセフはとにかく、最低ポリオの予防接種はすると言って、空爆の下でもやりましたからね。WHOは冬の寒いときに30万から40万の子どもが死ぬだろうっていう予想を出してたんですけど、毛布をロバで運んで、ほとんど一人も死なせなかったんですね。やっぱり命懸けで働いてるユニセフの人達の力だと思うんですね。そういうところはたくさん見てきました。

私を任命してくださったグラントさんというユニセフの事務局長だった方は、二回必要な予防接種では、戦争を止めさせて一回して、1週間たったら二回目やりますからって言ってまた戦争を止めさせた方ですから。人道的な立場から、子どもには敵も味方もないっていうものの考え方です。それがユニセフの根底にあると思います。

日本に対しては戦後すぐミルクとか毛布とか綿を送ってくださったんです。すごく日本の子どもが餓えてたけど、連合国の敵だったからあげなくていいっていう風にみんなで決まったみたいなんですけど、日本にはユニセフが送りますって。日本がこんなに凄い経済大国になるなんて夢にも思わないで、敗戦国の日本の子どもに当時のお金で65億円分の物を送ってくれたユニセフの、その無償の愛っていうのはやっぱり凄いと思います。親善大使と仰って下さった時、すぐお受けしたのは、何か少しはその時のお返しを出来ればという気持ちもありました。

― 逆に、ユニセフや国連に対して、「もっとこうすればよいのに」と思うことはありますか。

やれるだけのことはやってると思います。ゴマの難民キャンプで、後で日本の中国残留日本人孤児みたいになっちゃうといけないので、小さい子の写真どんどん撮って、名前を聞いて、お父さんとお母さんの名前とか知ってることは全部聞いて、記録したりもしているんですよね。ユニセフだけじゃなくて、他の国連の人達も、皆一生懸命やっていると思います。

― ユニセフからは少し外れますが、「障害のある友達を助けてあげよう」ではなく「みんなで一緒にやろう」という、黒柳さんの通われたトモエ学園の小林校長先生のお教えは、黒柳さんが社会貢献・国際協力活動を始められるうえで大きく影響しましたか。

© UNICEF/NYHQ2005-0195/Estey

© UNICEF/NYHQ2005-0195/Estey

小さい時って「一緒にやるんだよ」って言われてると、「あぁ、一緒にやるんだな」って思うから、なるたけ一緒にやれるように自分で考えて、ポリオの友達が一番仲良かった男の子だったんですけど、その泰明ちゃんを木に登らしてあげたりとか、逆に私が泰明ちゃんに本を読むこととか色んなことを教わって、助け合って一緒にやってきたので、そういうことがやっぱり根底にあると思いますね。だから、ボランティアとかそういうこと考えたことはないんですよ、いつでも。やるんだったら一緒にやるのがいいんじゃないのって。

耳の聞こえない人は劇場に行くチャンスって本当に少ないんですよね。見に行かれなかったらつまんないだろうなって思って、手話でやる舞台を見られたらどんなにいいだろうって思ったので、日本で最初のプロのろう者劇団を作ったのです。ユニセフのことでも同じですよね。ものをちゃんと食べて、自由に考えたり出来なかったらつまんないだろうなって思うので。

― 1997年にユニセフの政府拠出金が41%削られそうになった時、親善大使として新聞に投書して皆さんに訴えかけておられます。昨今もまたユニセフの通常予算への拠出は減り続けていますが、日本政府に対して、またその政策を支える国民の皆さんへ伝えたいことはありますか。

その時はね、外務大臣だった小渕さんが読んでお電話下さって。ブッチホンといって、電話お掛けになるので有名だったでしょ。「今日予算のことなんで、ユニセフのために頑張るからね」って仰ってくださって、その年は削られないで済みました。

でもよかったと思ったのもつかの間。ODAで日本の方が支払う1万円の税金のうちユニセフへいくのがその時30円。それがどんどんどんどん減らされてるんです。それによってどれだけの子どもが助かるか分からないんですから、30円を世界の子どものために使うのをみんな嫌だって言わないと思うんだけど、今は十何円かになっちゃってます。

でもね、希望がないわけじゃなくて、25年前に私が任命を受けた時は一年に1400万人子どもが死んでたんです。それが今920万人。だから約500万人近く子どもがこの25年間で死ぬのが減ったんですよ。それはやっぱり、みんな世界中の人が世界の子どものことを考えてくれてるからだと思います。

日本の方は、芸能人の私にこの25年間で46億円近く送って下さいました。ほんとに有難いことだと思います。世界の子どもに関心を持っていただくのが一番だと思いますが、募金していただけば直接助けることが出来るわけですから。500万人近く死ななくなった子どもの随分は日本から出たお金によると思いますものね。

「生きているとね、面白いこともいっぱいあるし、何か自分のやりたいことだって出来るんだし、やっぱり生きたほうがいいよ」

― 「希望を失った子には今まで会ったことがない」と仰っていますが、日本では年間500人の未成年が自殺しているんです。日本の子ども達へ何かメッセージをいただけますか。

私は難民キャンプに行くと必ず、「自殺した子いるでしょうか」って聞いてるんですけど、今まで一例も自殺で死んだって子はいないですね。もうほんとに生きていられないような境遇の中でも、子どもは前向きに生きていこうとする、そういう力を与えられているんだなって信じてたんです。私も戦争中、父は出征して、空から毎日爆弾が降ってくる、食べる物は全くない、最終的に親とはぐれて青森に疎開したりして、そんな中でもとにかく、生きていこうってしてましたからね。死んじゃったほうがましだなんて思ったこと一度もないですから!

日本の子どもがそういう風に年間500人も自殺するっていうのを聞くと、なんなんだろってまず思って、でもそんなはずはないなって思うんですよ。やっぱりそういう子ども達だって生きていきたいって思ってたと思いますよね。自殺する、しようとする子どもの心の中考えると、ほんとに可哀想ですよね。どんなに苦しいんだろうって思うので。ただ、乗り越えないとダメなんですよ、やっぱり人間ってね。みんな生きたいのに死ななきゃならなかった戦争とか、そういうことがいっぱいあった中で私達は生きているわけなんだけど、…、生きているとね、面白いこともいっぱいあるし、何か自分のやりたいことだって出来るんだし、やっぱり生きたほうがいいよって。

― 親善大使としての、今後の目標を教えて下さい。

25年やろうって目標じゃなくって、ここに来たら25年やってたってことなので、まぁ何年できるか分からないけど、できるだけやってみようって今思ってるんですね(笑)そのためには、テレビが付いて来て下さるように自分の本職もちゃんとやって、出来る限りユニセフのこともちゃんとやる。

あと、体を鍛えるってこと。この間、ネパール行ったときの歩いたことってあれはもう、本当にねぇ!内戦の後の瓦礫とか、ゴロゴロした上を歩いたり、階段やエレベーターなんてないですから。去年カンボジアに行ったんですけど、「はい、じゃぁ、今日は10時間自動車で行きます」なんて平気で言われますのでねぇ。10時間!?10時間、ガタガタ道行くんですね。で、着いたら「はい、じゃぁ、メコン川渡っていただきます」って、桟橋がなくて、斜めに渡してある板っきれの上を猿みたいに伝わって。この年でこんな事やる人少ないよねとか思ったんですけど、まぁその点元気なんで、やれるだけはやってみようかな、と。

― 最後に、同じく社会貢献・国際協力をしようと思っている日本の若者や、日本の方々にメッセージをいただけますか。

まぁ、体鍛えて。
やっぱり物事長く続けることが重要だと思うので、自分の出来る範囲内でやるってことも大事だと思うんですよね。それ以上無理にやると長く続けられなくて残念ですので。

大変でも、本当に自分でやろうと思ってやらなきゃできないことですものね。ですから、よく考えて。やろうと思ったら、是非やっていただきたいと思います。特に若い人達にね。よろしくおねがいします。

© UNICEF/NYHQ2002-0024/Noorani

© UNICEF/NYHQ2002-0024/Noorani

(インタビュアー:井上 拓也)

関連ページ