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国際連合地域開発センター UNCRD 所長 小野川 和延 さん

今回ご紹介するのは、国際連合地域開発センター(UNCRD)所長としてご活躍されている小野川和延さんです。開発におけるUNCRDの活動と、今後の日本の展望についてお話いただきました。将来の日本を担う方々への熱いメッセージが詰まったインタビューをお楽しみ下さい。

プロフィール

1972年京都大学工学部卒業。同年環境省(旧環境庁)入庁。国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所次長(1988-91)、環境庁大気保全局特殊公害課長(1993-94)、環境庁自動車環境対策第一課長(1994-96)、国際応用システム解析研究所(IIASA,在オーストリア)上級研究員(1996-97)、国立環境研究所主任研究企画官(1997-2000)、中東欧地域環境センター(REC, 在ハンガリー)事務局次長および日本特別基金局長(2000-2002)。2002年7月1日より現職。

 

先ず始めに、国連地域開発センター(UNCRD)の活動内容について教えて頂けますか?

1971年の発足当時のUNCRDは、大学や研究所との間のネットワークを通じて「地域開発とはどうあるべきか」ということに関してどちらかと言えばアカデミックな視点から答えを出そうとした組織でした。しかし、10年ほど前からUNCRDはリサーチから実学へとその事業内容をシフトさせています。環境、防災、人間の安全保障といった視点から、途上国の人材の育成、各国への情報の提供、政策立案のためのアドバイザリーサービスなどを通じて、地域開発の在り方を探っています。また途上国は、議論だけではなく具体的な変化や抱える問題の改善を求めており、この期待に応えるためにも、UNCRDは現実の課題についての具体的な対処の方向性を途上国と一緒に考え、打ち出すことを通じて、世界がかかえる課題の解消を目指そうとしているのです。

その具体的活動であるアドバイザリーサービスでは具体的にどのようなアドバイスを行っているのですか?

環境の分野を事例にとれば、UNCRDは活動の対象を都市の交通問題と廃棄物の二つに絞っています。これらは先進国、途上国を問わず、いずれも世界共通のテーマであり、途上国は、これらの課題にどう対処していくか、ということについての知見とアドバイスを求めているのです。そこで、UNCRDでは各国の政府に対してこの分野での政策や国家戦略づくりを支援するとともに、情報の提供を通じて対処能力の向上に協力しています。例えば、都市交通の分野については、各国の国家戦略づくりへの支援に加えて、Environmentally Sustainable Transport (EST)という概念を議論し広げていくためのアジアの地域フォーラムを2005年に立ち上げました。最初、14カ国でスタートした政府間フォーラムでしたが、今では南アジアも含めて22カ国が参加する地域フォーラムになり、また最初は各国政府の局長レベルの会議であったものが、次第に大臣や次官が出席するようになってきました。さらにはオブザーバーとして、域外の国々からの参加も増えています。参加国の数が増え、その参加者のレベルが上がっていくということはこの活動に対する一つの評価です。さらに、2011年からはこの活動に賛同して同様な地域フォーラムが中南米でも立ち上がることになり、UNCRDに対してアドバイスが求められています。

UNCRDは、農業開発や工業開発だけではなく、人々の生活の安全性の確保という面にも力を入れていて1987年以降防災をテーマに活動されているということですが、防災に対する日本の役割はどのようなものだとお考えですか?

地震や津波を始めとして、日本は様々な災害にさらされてきました。従ってこれらの災害にどう対処していくかということについての様々な知見を有しています。これらの知見を世界の各国と共有していくことが日本には期待されているわけですが、実際に災害時に対策を実施していくうえで重要になるのは情報の伝達手段や市民の協力です。このため、UNCRDでは地域の住民を巻き込んでの防災対策のあり方、といったアプローチに重きを置いています。災害の情報をどう伝達して被害を最小化するか、災害からの復旧に向けてどう市民が協力していくか、災害予防のための措置をどう地域で共有化していくか、といった地域に根差した防災対策を日本の経験をも参考にしながら進めているのです。

今まで伺ってきたお話の中でもそうだったのですが、国際機関となりますと外国を相手とする仕事が中心であるため、日本国内を対象とする事業を行うことが難しく、結果としてその活動が日本の一般社会に理解されることが難しいという面があると思います。UNCRDではこういった側面にどのように配慮していますか?

第7回UNCRD
スタディキャンプ終了式での様子

国連という組織にとって本来の仕事の場は途上国ですから、いくら本来の仕事を一生懸命やっていても、その活動は日本の社会に住んでいる人たちには見えてきません。そこでUNCRDでは、地元を巻き込んでのいくつかの活動を展開しています。まず第一が大学院の学生や若手の社会人を対象とした2泊3日のUNCRDスタディキャンプです。参加費も食費も無料とし、そして素晴らしい講師陣と少数で2泊3日ほぼ徹夜の議論を行うものですが、持続可能な開発(sustainable development=SD)という基本課題を中心に、「SDと市民の役割」など、毎年議論のテーマを変えていっています。徹底した議論を通じて、自分自身でどうものを考え、どう答えを創り出していくか、という能力を磨き上げていく場を提供しているのですが、草食系が多くなったと揶揄される日本の青年層にも関わらず、キャンプの前後では見違えるような変化を見せてくれています。

地域のNGOや会社を対象とした活動について詳しく教えて下さい。

市民の中には途上国の人たちのために何か貢献したいと思っている人たちがいます。しかし、何かをしたいと思っても、どこで何をしたらいいか、どれくらいお金がかかるのだろうか、どんなテーマがあるだろうか、など具体的にはほぼ白紙の状態です。こういった市民の方々の善意をお手伝いするために、GPP(Global Partnership Programme)というプログラムを開始しました。善意のある市民の方々の関心や希望に沿って具体的にどの国のどの地域でどのような事業を展開するのかを相談し、相手国の政府やコミュニティとの橋渡しを行って、小規模ではありますが具体的な事業を行っています。プロジェクトの立案の最初の過程から関わっていくことによって、市民には自ずと関心や親しみがわいてきますし、一部の人は実際に現地に行ってみる、ということもやり始めます。自分達がせっかく集めたお金がどう使われて、どう評価されているのかというのが分かり、さらに何度かそこに足を運ぶことによって、相手国やコミュニティに対する親しみのようなものも生えてくるのです。単に日本にいて、テレビで見たり、活字で聞いたりして得られるような理解を越えて、途上国の現実が実際にどうなのかということも分かってきます。それは携わる日本の地域やグループの国際化にも通じるのです。ドナーも喜ぶ、勿論受け取る側も喜ぶ。UNCRDも評価されるし、それを通じて交流も生まれてくる、そんな活動が継続されて広がっていけばいい。それがGPPというプロジェクトです。

「日本市民を対象とした活動は国際社会にはなかなか評価されにくいのですが、国連の組織の必要性をドナーである日本の方々に理解し支持していただけるように、広報にとどまらない活動を行っていく必要があると思っています。」

最近では、中国や、インドに加えてベトナムというような新ASEAN加盟国や南アジアの国々の経済発展や環境に対する意識は高まってきている中で、日本が果たすべき役割、期待される役割はどのようなものだと思いますか。

私は20年ほど前、バンコクにあるUNEP(国連環境計画)のアジア太平洋事務局で3年間働いていました。その当時、アジアはまだまだ途上国で、アジアの先進国である日本に対する期待は大変大きなものがあったのです。黙っていても日本にはアジアの中での存在感がありました。その後10年間、私はヨーロッパ、アメリカを中心として働いており、アジアに出かける機会が殆どなかったのですが、2002年にUNCRDに入ってアジアの国々を訪れてみて、日本という国の存在感が大変薄くなってしまっていることに驚きました。 経済界では国境などほぼ無いに等しいところまでグローバライゼーションが進んでいるにもかかわらず、ODAといった官ベースの組織としての日本という視点から見ると存在感が希薄になってしまっていたのです。日本が変わったということではありません、おそらくは、日本の公的な機関の動き方が20年前と変わっていないままに現在に至っている、ということだろうと思います。

組織の問題と関わる人の問題と双方があろうかと思います。ただ、組織の問題はさておき、国際協力の世界で働こうとする場合、積極性と外向性は不可欠です。日本人に特有な言葉の苦手意識という問題もありますが、内向的ではやはり務まりませし、自分自身の具体的なアイデアを持ち、それをどんどん表に出していくという積極性は不可欠です。もう少しアグレッシブにならなきゃいけないところもあるのでしょうね。

「信じるところを持って思いっきり動いていく」

 「アグレッシブ」というのは具体的にどのようなことなのでしょう?

一言で言うと、攻めの姿勢に変わらなければいけないと思います。黙っていてもわかってくれるというのは日本の社会で、国際社会では議論して相手を説得することが不可欠です。学生さんも同じで、授業に出て黙って聞いているのではなく、参加して、先生と仲間と議論しなければいけないのです。それを通じて議論を行う力も付いてきます。市民の一人一人が事なかれ主義では世の中は変わりません。坂本竜馬は稀有な存在ですが、信じるところを持って思いっきり動いていく、という姿勢は必要です。

小野川さんは環境省入省後、様々な国際機関で勤務しご活躍されてきましたが、その中で最も印象に残っている体験や人物について教えてください。

人という面では、橋本道夫さんという方です。大阪の保健所長をやられた後、厚生省の初代の公害課長、環境省の部長や局長を務められました。今でこそ日本は水も大気もこんなに綺麗ですが、60年代後半の日本の環境はひどかったのです。日本の中で公害が大きな問題になった時に、日本の公害行政の草分けとなった人が橋本さんでした。経済一辺倒だった時代に環境問題の重要さを説き、官僚として政策の立案に尽力されたのです。その時に『こういう仕事をしていると、時として色んなところから色んな圧力がくる。しかし、どんな圧力がかかろうと、自分自身が思っていることをきちんと筋を曲げずにやっていく為に国家公務員は勝手に首にされることがないよう身分が保障されているのです。それを忘れてはいけません。』とおっしゃったのが橋本道夫さんでした。

役所時代は上司と部下でしたが、年齢が離れていてランクにもかなり差がありましたし、忙しい毎日ですからほとんどお話しする機会もありません。しかし、橋本さんが退官されて筑波大学の教授になり、私が初めて外国に行ったときにご一緒する機会があり、じっくりお付き合いさせていただきました。もう30年以上前になりますが、私にとって初めての外国出張となったインドネシアで都合4週間余り一緒に旅をさていただいたことが、私の人生が国際畑になってきたきっかけとなったのです。日本の経験や考えを押し付けるのではなく、地域に入っていって現状を理解し、経済、社会、環境を考え、どうすれば一番現地に適応した計画になるか、を検討していくという基本的な考え方を橋本先生には評価していただきました。人と言う意味では、私にとって大きな出会いでした。

「その地域に入って状況を理解して一番適切な答えを出すことが本当の意味での国際協力」

仕事という面では、以前にいたハンガリーのブダペストです。Regional Environmental Center for Central and Eastern Europe (REC:中東欧地域環境センター)という組織ですが、RECが設立されたのが1990年、1989年12月のマルタ会談で東西冷戦が終結したことを受けて設立された組織です。東西冷戦の終結に伴って、元ソ連邦の支配下にあった中央ヨーロッパの15の国々をどうやって西側に向けさせるかということが西側社会にとって大きなテーマになっていました。その問題の解決のために環境という視点が用いられたのです。環境というテーマは、言論の自由に乏しかった旧ソ連邦の時代においても生活に結びつく課題であるがゆえに、比較的自由に議論できるテーマでした。その環境というテーマを用いて、バルティックからバルカン半島にまたがる15の国々の環境の情報をその国々に流したのです。情報に触れることによって市民は自分の意見を持ってきます。それが環境という自分たちの生活に密接に関連するテーマであればなおさらです。こうして、トップダウンではなくボトムアップで、市民が声をもつ社会を築き上げていくことを目指したのです。いったんボトムアップの市民社会が出来上がってしまったら、如何に国のトップが再度旧体制に戻ろうとも、市民がそこまでのレベルに育っていたら、その国々はきちんと西を向いてくるであろう、ということを期待したのです。そのときのテーマとして、昔から議論することが許されていた環境というテーマが使われました。環境というテーマが政治体制の構築に影響を与えるようなツールとして使われるということも有り得るのだということを教えてもらったのがRECでした。

「アグレッシブに、攻めの姿勢で、積極的になる」

最後に、国際協力・社会貢献に興味を持つ日本の方々へ一言メッセージをお願いします。

特に若い学生さんは、積極的に発言し、それを通じて自分自身が変わっていくことを期待したいと思います。日本は経済面から見れば力のある国かもしれませんが、国際的に活躍していくためには、積極性が不可欠です。是非そういう発想を持つ日本人の人たちが育ってくれれば、と思います。

(インタビュアー:金畑 喜美・並木 里枝/写真:山口 裕朗)

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