本文へスキップします。

  • プリント

ここから本文です。

国連開発計画(UNDP)親善大使 紺野 美沙子 さん

今回ご紹介するのは、国連開発計画(UNDP)親善大使として10年以上活動されている女優の紺野美沙子さんです。好きな言葉は、「一日は人生の縮図」。瞬間、瞬間を大切にされている紺野さんのインタビューをお楽しみ下さい。

プロフィール

慶応義塾大学文学部卒。1979年女優デビュー。1998年10月に国連開発計画(UNDP)親善大使に就任。これまでにカンボジア、パレスチナ、ブータン、ガーナ、東ティモール、ベトナム、モンゴルやタンザニアを訪問。TVやラジオへの出演、新聞・雑誌のインタビュー、執筆活動や講演を通じて開発援助の必要性とUNDPの活動について積極的に広報活動を展開している。2008年には自ら東ティモールにおける環境保護、貧困削減のための植林プロジェクトに資金協力を行っている。

 

「心が動く瞬間を積み重ねることで、とても豊かな人生になると思うんです」

始めに、紺野さんにとって表現すること、演じることとはどういうことですか。

私が表現するということの前に、日々の生活で、音楽を聴いたり、映画や演劇を観にいったり、いろいろな方と会ったりする中で、心が動かされる瞬間がとても良い時間だと思うんですね。今日こんな良い話を聞いた、こんな良いものを見た、公園に行ってこのように感じたなど、心が動く瞬間を積み重ねることで、豊かな人生になると思うんです。ですから、演劇、ナレーション、親善大使、何でも良いのですが、私が表現したことで、心を動かして頂ける、少しでも何かを心に留めて頂ける、ということがとても嬉しいことだなと思います。自分が表現することで、一人でも多くの方の心を動かすことができたらなと思っています。

演技を始めたきっかけは何ですか。

小学校5年生のときに入っていた演劇クラブがきっかけです。顧問の女性の先生がとても熱心に指導して下さる方で、厳しい指導を経て迎えた晴れ舞台が、とても思い出に残っているんですね。そのときに、お芝居って面白いんだなと初めて思いました。

ボランティアや国際協力などは、以前からされていたのですか。

幼稚園から中学校までカトリック系の学校で、奉仕活動の時間というのがありました。例えば、みんなで庭の掃除をしましょうとか、そういう校内の活動もありましたし、有志で近くの高齢者の施設に行って手伝いをするなどの活動もありました。小学校6年生か、中学校1年生くらいの頃だったのですが、お友達と一緒にみんなで近くの高齢者の施設を訪ねたんですね。どんなお手伝いをするかというと、施設内の掃除をしたり、お年寄りの方と話をする、といったものだったんです。そこで、訪れただけで喜んで下さる方がいらして、特別なことは何もしていないのだけれど、それだけでこんなに喜んで下さるんだ、ということは自分にとって大きな発見でした。当時はまだ、国際協力、国際貢献は全く意識していなかったのですが、ボランティア活動には自然と触れていました。

親善大使としていろいろな国を訪問して、出会った人、聞いた言葉、見たこと、感じたことで印象的だったことはなんでしょう。

そうですね、本当にたくさんあります。例えば、最初に訪れたカンボジアでは、子どものときに地雷の被害を受けて片足をなくした、当時二十歳くらいの女性に会いました。彼女は、地雷の被害に遭った同じ立場の女性たちのために活動していました。「カンボジアでは長いこと男女差別があり、女性であるということだけで立場が弱い。なおかつ何らかの被害に遭うと、前世で何かがあったからそういう被害にあったのだ、などの評判が村に広まってしまう」と言っていました。「このような環境下では、どうしても被害を受けた女性たちは引きこもりがちになってしまう。そういった女性たちを繋ぐネットワークみたいなものを作りたい。彼女たちの代表になって私は頑張りたい」と語る彼女の話を聞いて、若いながらも社会的なことを考えてリーダーになっている女性がいることに非常に感銘を受けました。

「どこの国も子を想う母の気持ちって一緒なんだな、と思いました」

東ティモールでは、炎天下のマーケットで朝から晩まで野菜を売っているおばちゃんがいたんです。おばちゃんに「今日は何時に家を出てきたの?」って訊くと、「夜中ずっと6時間もかけて田舎から乗り合いバスで来たんだよ」って。一日どのくらい売れるのか尋ねると、「まぁ、売れないときは50セントくらいだけど5ドルくらい売れるときもあるなぁ」って。そのお金でどうするのかと訊くと、「子どもを学校に行かせたい」とか「子どもにご飯を食べさせたい」と言っていました。それは、どこの国のどの女性に訊いても、子どもに教育を受けさせたい、子どもに何か買ってやりたい、とみなさん仰るんですね。あぁ、やっぱりどこの国も子を想う母の気持ちって一緒なんだな、と思いました。

2003年には、西アフリカのガーナを訪れました。首都のアクラから北へ車で3時間くらいのところに、イースタン州のマンヤ・クロボという地区があるんですね。ガーナの中でもその地域はHIV/エイズで親を亡くした孤児たちが特に多く、エイズ孤児たちの困窮状態や差別の実態に関する調査をUNDPが行っていました。私が訪問したとき、地域を治める首長さんを中心に地域の方やクィーン・マザー協会と呼ばれる名誉婦人会に属するお母さんたちが集まって歓迎して下さいました。その地域におけるエイズ孤児の増加に対応するために、クィーン・マザー協会のお母さんたちが、一家庭あたり6人のエイズ孤児の里親になって、自分の子どもと同じように育てていたのです。6人も引き取って育てていることにとてもビックリしました。それも、自分のお子さんが5人も6人も7人もいらっしゃるのに、なおかつ6人も引き取って、同じように学校に通わせて、もちろん食事も実子と区別することはありません。なかなかできることではないですよね。ガーナのお国柄として、「困ったときはお互い様、情けは人のためならず」という考えのもとで、みんなで協力して地域を作っていこうという意識がものすごく強いのだそうです。それで、マンヤ・クロボ地区でも、孤児の子どもたちの運命は自分たちにかかっている、という首長さんのお声掛けによって、みんなで協力して助けていくことに決まったらしいんです。そのクィーン・マザーのおばちゃま方に会ったときにすごく親しみを感じたんです。心からのもてなしを受けていると肌で感じましたし、親戚みたいな温かさも感じました。日本もアフリカも一緒なんだなって、心から思いましたね。そのときにナナ・ラコ(「ナナ」はクィーン・マザーの最高位、「ラコ」は初めての子どもの意)という称号も頂き、「あなたも日本で頑張りなさいよ」とエールを送られたような気がしました。とても素晴らしい触れ合いの時間でした。

開発途上国の子どもたちと、便利な世の中にいる日本の子どもたちとの違いを感じますか。

ものすごく純粋だったり、好奇心でいっぱいだったり、エネルギーに満ちあふれていたり、そういう「子ども」の部分はみんな一緒だと思うんですね。じゃあ、何が違うかなと考えたときに、開発途上国の子どもたちと日本の子どもたちでは、まず、環境が全く違う。開発途上国の中でも特に貧困に苦しむ子どもたちというのは、治安や衛生の面で危険にさらされるリスクはものすごく高い。例えば、日本だったらいつでもどこでも安全な水を飲むことができるけれど、開発途上国の子どもたちが安全な水にアクセスできる確率は大変低いんですね。所有しているもの、住んでいる家も全く違う。就学率も日本はほぼ100%ですが、開発途上国では学校に行きたくても行けない子どもがたくさんいます。

日本の子どもたちは時間に管理されすぎていたり、反対に時間があってもゲームなどで時間を潰して、いまひとつ覇気がないような気もしますが、途上国の子どもたちはみんな大人が期待するような、子どもらしい子どもだなっていつも思います。けれども、スラムのようなところで暮らして、満足に食べるものがない、物乞いをしたり働かなくては生きていけない、そのような環境にある子どもたちと接していると、内に抱えている辛さを感じることもあります。厳しい状況の中で追いつめられて、感情が上手に表現できなかったり、泣いていたりする子どもたちに会うと、どきっとする。子どもが苦しんでいる状況を見るのが一番辛いですね。

「注目が集まる国とそうでない国がある」

東ティモールの植林活動へ寄付をされた経緯を聞かせて下さい。

2004年に東ティモールを上空から見たときに、ずいぶん緑が少ない国だなと思いました。どこに行っても山の緑が残っていないんです。これは、かまどを使用した日々の煮炊きのために、住民がどんどん木を切ってしまうことが原因のひとつなのですが、そういった中でUNDPが植林活動、環境保全の活動をしています。帰国してしばらくしてから、クイズ番組の出演依頼がありました。国際援助の世界にも、注目が集まる国とそうでない国があって、イラクに注目が集まるときもあるし、世界中の人の注意がアフガニスタンに向いているときもある。東ティモールも2002年の独立の前後というのはかなり報道されて注目が集まっていたのですが、この頃は、マスコミに取り上げられる機会も少なくなっていました。ですから、子どもたちも見ているようなゴールデンタイムの番組で「賞金が獲れたら東ティモールに木を植えます」と言えるだけでも良いと思って出演しました。ちょうど環境問題もマスコミで報道されているときで、植林が一番わかりやすいメッセージかなと考えたのです。そうしたら、賞金も頂けてしまった(笑)。このときのクイズで獲得した賞金の一部は、東ティモールの自然保護と地方の貧困削減のための植林プロジェクトに役立てられることになり、約30 万粒の苗木の種を購入することに充てられました。植林は、環境保護を根付かせると同時に、地域住民の所得と雇用を生み出すのに役に立っているそうです。

2008 年に親善大使としての体験を本にされました。

本を書こうと思ったのはガーナで出会った孤児の男の子の一言がきっかけでした。HIV/エイズで両親を亡くした男の子が私の前でマイクを向けられたときに、「ある日突然エイズが僕の村にやってきて僕のお父さんお母さんを奪ってしまった。僕はものすごくエイズという病気が憎い。でも今日、UNDPの親善大使や国連の人たちが僕らの村にやってきてくれたから、僕たちはもう大丈夫だと思う」って言ったんです。確かにUNDPが調査を行ったり、いろいろな援助が少しずつ入ってはいるけれども、親善大使が訪問したからといって彼らの生活が次の日から劇的に変化するというわけではない。明日になればまた日常に戻る。けれども、小さな力でもできることは何かと考えたときに、少しでも多くの人々に伝えていくことだと思いました。時間はかかりましたが、伝えることの一環として、本を書きたいな、とそのときに思いました。

「待てないということは待つことで得られる喜びを失ったということ」

著書の中で、「待てないということは待つことで得られる喜びを失ったということではないか」と書いていらっしゃいますが、具体的にはどういうことですか。

我慢して何かを得るから、その分喜びが大きくなるわけですよね。恋愛しているときも「会いたい!」と思って会えたのが嬉しいわけで、いつも会えたら「あぁ、いたの」みたいになってしまうこともありますよね(笑)。お腹がすいたなと思ってぐーっと我慢して出されたお茶漬けがすごくおいしい。それが一番のご馳走だって何かの物語にありましたけど、本当にそうですよね。夏が来てスイカが食べたいなとか、春になったらたらの芽が食べたくなったり(笑)。そのような季節ごとの喜びのようなものがたくさんあると思うんです。これだけ流通が発達していると一年中スイカが食べられる。旬のものを待って味わう、といった喜びが少なくなっているような気がするんです。誕生日を待って欲しいものを買ってもらえた喜びなどもありますよね。少し大げさかもしれないけれども、我慢することで得られる人生の喜びが、今の日本では少なくなっているような気がします。

最後に、このインタビューを読んで下さっている方々にメッセージを。

報道を見ていると、同じアジアの中でも新興国の若い人たちのエネルギッシュな姿が印象的ですね。日本の若い人たちへも「お姉さんは期待しているよ!」とエールを送りたい。日本人で世界を股にかけて活躍している大先輩がたくさんいるので、どんどんあとに続いて欲しいなって思います。

(インタビュアー:平山 博之/写真:木下 勢冶)

関連ページ