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日本ユニセフ協会大使 アグネス・チャン さん

今回ご紹介するのは、1998年に日本ユニセフ協会大使に任命されたアグネス・チャンさんです。多文化的な背景、長年のボランティア活動の経験をお持ちになっているアグネスさんとの感情の溢れるインタビューをお楽しみ下さい。

un_interview_photoプロフィール

1955年、香港生まれ。1972年日本デビュー。上智大学国際学部を経て、カナダのトロント大学(社会児童心理学)を卒業。米国スタンフォード大学教育学部博士課程に留学し、教育学博士号(PhD)取得。1998年、日本ユニセフ協会大使に就任。以来、タイ、スーダン、東西ティモール、フィリピン、カンボジア、イラク、モルドバ共和国、インド、中国四川、ブルキナファソと視察を続け、その現状を広くマスコミにアピールする。現在は、芸能活動だけでなく、エッセイスト、目白大学教授(客員)、日本ユニセフ協会大使など、知性派タレント、文化人として世界を舞台に幅広く活躍している。

 

― アグネスさんはどのようなきっかけで、日本ユニセフ協会大使に任命されましたか。

私の長男が生まれた時、子どもにもボランティア活動をさせたいと思いました。ユニセフには、「ラブ・ウォーク」というみんなで歩いて募金をするイベントがありまして、これであれば、赤ちゃんを背負っても行けると思いました。多分、よく分からないだろうけれど、無意識の中で覚えていればと思い、赤ちゃんと一緒に、一般の人にまぎれて「ラブ・ウォーク」に参加しました。そこで正体がばれまして、「アグネスチャンじゃない」と、日本ユニセフ協会の方から声をかけられました。それが協会のスタッフと知り合うきっかけとなりました。それから十年くらい、家族と共に協会と、色々な活動を行いました。そして、1998年に、「私たちは一番弱い子どもの声になりたい、正式に一緒に活動してくれませんか」と言われ、その言葉にとても感動し、大使に任命されました。

― なぜ息子さんを赤ちゃんの時からボランティアに参加させたいと思われたのですか。

私は中学生の時、香港で始めてボランティアを行い、世界がぐんと広がりました。その時まで、どちらかといえば、内気でちょっと暗い子でした。思春期ですから、「自分がとても大変だ、かわいそうだ」と思って、自分の問題しか考えていませんでした。でも、ボランティアをし、あんなに狭い香港でも、本当に食べられない難民の子がいること、また知的障害や体の障害を持っている子どもがたくさんいることを知りました。そのような方々と触れ合っていくうちに、自分が変わったのです。その後、世界の子どもたちが本当に大変だと知ったきっかけの一つは、1985年に初めてアフリカへ行った時です。エチオピアに行きました。もう本当にびっくりしました。戦争と旱魃により、子どもたちも含めまして、ばたばたと人が倒れ死んでいきました。それを見たとき、なにを感じたかというと、私の力って何て小さいのだろう。一人の人間に何ができるのだろう。何故、私がこんなに豊かな国で生活ができ、アフリカの人にはできないのだろう。誰が決めたのだろう。神様なにしているのだろう。もう人生が大葛藤になってしまいました。しかし、たどり着いた答えというのは、その時一緒に行った日本人の看護婦さんの言葉でした。「理屈は誰でも言えるから、もうそれはいいから、あなたが本当に少しでも子どもに申し訳ない気持ちを持っているなら、与えられている役目を果たしなさいよ」と言われたのです。それで、一生懸命に活動をすれば、理由が分かってくるのかな、真実が見えてくるのかな、と思いました。そのような経緯があり、子どもにも小さい時から、人の痛みを分かってもらいたいと思ったのですね。

「私はその現実を見てしまった本人であり、見た人には責任があります。できるだけ広く伝え、それにより、多くの人が活動でき、1人でも多くの子どもを救いたいのです。それだけです。他には何もありません。」

― アグネスさんが中学生のころからボランティアの活動を始められて、今まで続けてきた、その原動力は何ですか。

最初は何も分かりませんでしたが、徐々に子どもが大好きだと気付きました。両思いです。子どもは私のことが好きみたいです(笑)。結構、私は片思いするタイプですが、子どもに関しては両思いです。必ず答えてくれます。子どもが生きたくても生きていけない、一度もおなかがいっぱいになったことがない、学校で勉強したくても学校がない、おなかが痛くても薬を飲めない、そういうことが許せないのです。私はその現実を見てしまった本人であり、見た人には責任があります。できるだけ広く伝え、それにより、多くの人が活動でき、1人でも多くの子どもを救いたいのです。それだけです。他には何もありません。

― 教育の専門家そしてアーティストとして、子どもたちと接触する時に、特別な方法がありますか。

あります。私はたくさんの子どもを笑わせる技を持っているのです。歌を歌ってあげたり、物語を教えてあげることもありますし、ダンスやゲームをすることもあります。本当に一生懸命、何週間も考え、イラクの子どもだったら何をやるのか、ティモールの子だったらこれをやろうなど、考えて行きます。やはりどんな子でも遊びたいのですよね。おなかが減っている時でも、戦時中でも、やはり遊びたいのです。ですから、私は子どもと会う時には遊び相手にもなります。あの手この手で、みんなで楽しみます。何も持っていない子どもたちなので、手で遊んだり、私が帰っても残るゲームを色々と教えるのです。

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© 日本ユニセフ協会/Kaneko

― 被害を受けて心を閉ざしてしまった人々もきっといると思いますが、その時に、このような技は使えないですね。

使えないですね。四川大地震の後、現地に行きました。自分の学校から戻ってくると、全ての親族が死んでしまった。お母さんが行方不明で、まだ最後の別れも出来ていないような場合は、子どもは喋れません。戦時中に、目の前で多くの人が殺された現場を見た子というのは、人と目を合わせることも出来ない場合があります。一日二日では本当に難しいのですが、私はこの子たちの手を取り、じっと、おでこをあわせます。抱っこできる子は抱っこしたり、おんぶしたりして。喋る時は、「一番楽しいことを思い出そう、楽しい時間はまた来るよ」ということを話します。話してくれなくても、ずっと手を繋いで一緒に視察しに行きます。そうすると、そのうち、話しかけてきたり、泣いたりして心を開いてくれます。

― アグネスさんの多文化的な背景は、今まで国際協力の仕事にどのように役立ちましたか。

とても役立ちました。やはりアジア人ということで、アジアに行くと、食べ物とか習慣なども似ています。彼らの宗教的なことや、歴史背景等も分かりますので、皆安心して付き合ってくれます。アフリカの場合、私は様々な国で生活したことにより、おそらく何かオープンな雰囲気を持っているのでしょうね。私は、出されたものは何でも食べますよ。おなかを壊せば、その後で考えます(笑)。そして、出身や、多文化ということよりも、一番良かったのは私も母親であること。人間が実際に何を望むかといえば、平安な生活です。家族がみな健康で、子どもが夢を見られる、そういう状況ですね。母親には、そのような話題が必ず通じます。南スーダン視察でも、女性達がたくさん集まっている場所で結婚や子どもの話をしました。すると、本当に一瞬で悲しいことを忘れるのですよ。「じゃあ、私が日本の子守唄を歌ってみようか。この子は寝るのかな。」そうやって、本当に仲良くなれるのです。その時彼女たちが暮らしていた難民キャンプでは、よく空襲が来ますので、急に帰らなければいけなくなりました。その時女性たちが立ち上がり、私を歌で送りだしてくれたのです。

© 日本ユニセフ協会/Kaneko

© 日本ユニセフ協会/Kaneko

飛行機までずっとついてきてくれました。激しい川を渡って逃げてきた人たち。子ども五人の内、二、三人なくして、何も持っていないような人たちなのに、ひょうたんで出来たお椀を出して、私に「これで、三人の子どもにご飯を食べさせるといいよ。これなら水を汲んでも漏れないし、ご飯を入れて食べられるよ。」って、渡してくれたのです。来る前には、絶対に泣くまいと思っていました。みんなもう既に悲しい思いをたくさんしてきたので。でも、わんわん泣いてしまいました。人間というのは心に壁がないのだな、と思いました。向こうも私の子どもの成長を願って、母親の私を応援してくれる。私も同じです。それが世界中どこでも通じるのです。

「私たちが当然である子供の権利を戻してあげることだけなのです。えらいことをしているわけでもなく、やさしいとか、やさしくないとかそういう問題ではない。これは、当たり前なこと、やらなきゃいけないことなのです。」

― ユニセフ協会大使に任命されてから、ボランティアの活動について、新たな発見がありましたか。

大使になり、本当に日々勉強です。以前は、子どもが本当にかわいそうだから、みんなで助けましょうということだったのですが、ユニセフ協会大使になり、子どもがかわいそうだから救うのではない。子どもの権利が侵害されているから、その権利を戻すために、私たちが活動するのだ、ということを知りました。目からウロコが落ちました。私たちが当然である子供の権利を戻してあげることだけなのだ。えらいことをやっているわけでもなく、やさしいとか、やさしくないとかそういう問題ではない。これは、当たり前なこと、やらなきゃいけないことなのです。ユニセフは本当にフィールドで、とても頑張っている団体です。敵も味方もなく、子どもは皆救う、という姿勢に私も賛同できました。それに、気持ちだけで走っている団体でもありません。もちろん気持ちもいっぱいなのですが、お金をできる限り有効に使う、という姿勢を感じます。毎年様々な国に行き、色々な角度から、子どもたちの問題を勉強し続けていますが、ユニセフは子どもたちを救いながら、子どもたちのための環境を整えたいのです。私たちなりに小さな革命を起こそうとしているのですね。「チルドレンファースト」という、子どもを最優先として考えた、国作りをしてもらいたい。その為に、アドボカシー(権利擁護の主張)も多く実践し、社会に影響を与えていきたいですね。

― 大使にとって、一番楽しいことと一番つらいことは何ですか。

一番楽しいのは子どもたちと会うこと、一番つらいことは子どもたちと別れることです(笑)。毎回そうですね。行く前はうきうきしますが、帰る時は悲しくて。帰ってきて、その悲しみをばねに必死で動き、その子どもたちの問題を皆に知ってもらう。そして少しでも成果が上がってくると、その悲しみが少し楽になるのですね。でも、正直に言って、辛さは消えません。今でも、ずっと持っているものです。私の心の中には、子どもがいっぱい住んでいます。住んでいるからこそ、活動が続けられるのだと思います。悲しいから、つらいから、悔しいから、動くのですよね。

「歌は時間を越え、国境を越え、人種を越え、憎しみも超えて、人々の心の中でこだまするんですよ。」

© 日本ユニセフ協会/Nozawa

© 日本ユニセフ協会/Nozawa

― レソトでエイズ末期の若い女性患者と出会ったときに、歌を歌ったという話をお聞きし、とても印象に残りました。その時は、どのような歌を歌いましたか。

私は自分の故郷の歌、「帰ってきたツバメ」などを歌いましたね。そうすると、本当に死にそうな女性だったのですが、歌を返してきたのですね。言葉は分かりませんけれど「神さまは罪人でも見守るよね」というような内容だったそうです。周りの女性が合いの手を入れ、小屋のなかで歌ってくれた。私、あんなに悲しい歌、あんなに愛情あふれる歌を聴いたことがないと思いましたね。彼女は、夫が出稼ぎ先で病気がうつり、自分も感染したのですが、まだ小さい子どもを抱えていた。だからエイズは、子どもだけを守ればいいという問題ではないんですね。特に、若い親は早く死んでしまう。子どもがまだ小さい時に両親が死んでしまうと、その子どもがみな、孤児になる。エイズ孤児というのは、アフリカでも育ててくれる人はいません。村から追い出され、それで死んでしまうか、或いは、都市に体を売りに行ったりするしかないのですね。ですから、やはり親も守っていかなければいけない。もう彼女は末期でしたから、何も出来ませんでした。彼女の死が無駄にならないように、どうすれば良いのか、考えていきたいと思います。

― 国際協力・社会貢献の仕事は、アグネスさんご自分の音楽へも影響を与えましたか。

そうですね。私は長い間、ラブソングを歌うことは軽すぎると思っていたのです。それでメッセージソングばかり歌っていた時期もありましたが、それは違うということが分かりました。歌はジャンルの問題ではないのです。どういう人がどのように歌に慰められるかというのは、ジャンルに関係ないのですよね。自分もやはり若いときにはラブソングなどに、とても慰められました。ですから、歌は、その人の心の中にこだますれば、どんな歌でもそれで良い歌なのです。歌は時間を越え、国境を越え、人種を越え、憎しみも超えて、人々の心の中でこだまするんですよ。やはり、そのような歌手になりたいですね。

― アグネスさんは子供たちのセルフ・エスティーム(自尊感情)が人生にものすごく大事だと思うとおっしゃっていました。人身売買などの被害を受けた子供たちの人生を、どうのように助ければよいですか。

© 日本ユニセフ協会/Kaneko

© 日本ユニセフ協会/Kaneko

ユニセフの場合は、民間の援助団体と手を組み、加害者を摘発したり、救われた子供たちの面倒を見たり、再修学させたり、親元へ返すなど、様々な活動を行っています。例えばモルドバ共和国では、外国に売られた子どもたちのために、自国に戻った時には大人になっているケースもありますが、セーフハウスを作って、彼女たちが生んだ子どもたちも一緒に育てたり、職業訓練を行ったりしています。しかし、本当に傷跡は深いなと思いました。何回も自殺しようとする人、自分を傷つけようとする人がいます。多くの場合、人身売買の被害者は、売春や、強制労働をさせられるときに、お酒を飲ませられ、麻薬を打たれ、覚せい剤をやらされて、逃げられないようにさせられるのです。そのような子どもたちのセルフ・エスティームはとても低いため、自分の子どもを育てることも困難になっています。暴力に走ったり、あるいは、再就職が出来なければ、子どもを育てるために、結局再び体を売ったりします。これは、とても大きな問題です。リハビリにも力を注ぎたいのですが、予防が一番大事です。そのためには、立法が大切です。日本でも、私たちは一生懸命に訴え、1999年に児童ポルノ・児童買春禁止法が成立しました。現在は一生懸命、児童ポルノの所持を違法にしていく、という活動をしています。一度起きてしまえば、何年たってもダメージは残り、消しゴムのように消すことは出来ません。それが起こる前にとめなければならないのです。こうした活動を続けていると、児童ポルノ好きな人々から攻撃されることもあります。しかし私は、覚悟をしています。

― 日本の人々はこれらの問題についてどうすべきだとお考えですか。

やはりまず、児童ポルノを買わない、見ないことでしょう。偶然にこのようなサイトを発見したら、報告する。もし、周りにそういうようなものを持っている人がいれば、摘発する。皆で子どもを守る、その意識を高める、それが大切ですね。そうすると、関係する業者は儲けることが出来ない。やはり、児童ポルノは儲かる人がいるから存在するのです。「麻薬は一回きりしか売れないが、女と子どもは何回でも転売できる」と、犯罪者はそう言います。恐ろしいです。ですから、まず買わない、見ないことが大切です。

― ユニセフの活動によって、最も状況が改善されたと思われるところは何ですか。

私が大使になった時は、毎年1300万人の子どもたちが5歳になる前に亡くなっていました。現在、12年経ち、今年の数字が880万人です。いまだに880万人もいるということなのですが、それでも大きく減りました。その背景には、衛生状況が良くなったり、栄養状況が良くなったり、予防注射のキャンペーンなどがあります。勿論、それは世界中からの募金による、ユニセフの活動、あるいは他の団体と一緒に行ってきた活動の成果です。ここ数年、日本ユニセフ協会を通じての、日本の民間募金額は、世界の中で一番になりました。日本の皆さんの善意がたくさんの子どもたちを救っているのです。それは是非皆さん実感して頂きたいですね。

「この世の中の現実を、見てほしい、知ってほしい、そして、悩んでほしいのです。」

― 最後に、国際協力・交流に興味を持つ日本の方々へ一言メッセージをいただけますか。

© 日本ユニセフ協会/Kaneko

© 日本ユニセフ協会/Kaneko

日本は世界の中でも人口が多く、一億人以上の大国です。そして、第二の経済大国でもあります。できることは多くあります。近年、外国へボランティアとして、協力者として出かけていく若者も増えています。各国のユニセフの現場で働いている若者もたくさんいます。私はそのような、勇気ある若者が、もっと増えてほしいと思います。この世の中の現実を、見てほしい、知ってほしい、そして、悩んでほしいのです。おそらく悩みから、答えが少しずつ出てくる。世の中が変わると思うのです。遠い国のことだから分からない、大変な問題だから解決方法が無い、という諦め組みにだけは入ってほしくないと思います。理屈ばかり並べて、体を動かさないのでは意味がない。国際協力というのは特別なことではなく、当たり前のこととして考えてほしいのです。力がある人は力を出す。智恵のある人は智恵を出す。お金がある人はお金を出す。気持ちだけしかないという人は、気持ちを出す。みんながそうすれば、本当に大きな力になります。是非、若者に頑張ってほしいです。若者が頑張らないと、世の中は変わりませんから。是非様々なことを学び、1人でも多くの人の幸せのために活動して下さい。

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(インタビュアー:李 夢鈺/写真:山口 裕朗)

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