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バルカン諸国出典「国連の基礎知識」

旧ユーゴスラビア

ユーゴスラビア連邦共和国は国連の原加盟国の1つであった。1991年、連邦内の2つの共和国、スロベニアとクロアチアが独立を宣言した。クロアチアに住むセルビア人はユーゴスラビア軍の支援を受けてこの運動に反対し、セルビアとクロアチアとの間に戦争が始まった。これに応えて、安全保障理事会はユーゴスラビアに対する武器禁輸を決定し、事務総長は欧州共同体の和平努力を支援する個人特使を任命した。1992年、安全保障理事会は、解決のための条件を作り出すために、国連保護軍(United Nations Protection Force: UNPROFOR)を設立し、当初クロアチアに展開させた。他方、戦争は同じく独立を宣言していたボスニア・ヘルツェゴビナへと拡大した。この動きはボスニアのクロアチア人とイスラム教徒の支持を受けたが、ボスニアのセルビア人は反対した。セルビアとクロアチアの軍隊が介入し、安全保障理事会はユーゴスラビア連邦共和国(当時セルビアとモンテネグロで構成)に対して経済制裁を実施した。

戦争が激化し、第2次世界大戦以来のヨーロッパ最大の難民危機が発生した。「民族浄化」が広く報道されるようになり、安全保障理事会は1993年、戦争犯罪を訴追する国際刑事裁判所を初めて設立した。理事会はまた、いくつかの場所を戦闘から守るために「安全地域」と宣言した。UNPROFORはボスニアでは人道救援物資の輸送を保護し、首都サラエボやその他の「安全地域」を保護することに努めた。平和維持司令部は3万5,000人の部隊を要求した。しかし、安全保障理事会が承認したのはわずか7,600人の部隊であった。サラエボに対する攻撃を止めさせるため、北大西洋条約機構(NATO)は1994年、事務総長の要請を受けて空爆を承認した。空爆に対抗して、ボスニアのセルビア人勢力は400人のUNPROFOR監視員を拘束し、「人間の盾」として利用した。

1995年、戦闘は激化した。クロアチアはセルビア人の住む地域に大攻勢をしかけた。NATOは、ボスニアのセルビア人勢力によるサラエボ砲撃に対して、大規模な空爆を加えてそれに応じた。ボスニアのセルビア軍はスレブレニッツァとジェバの「安全地域」を占拠した。スレブレニッツァではおよそ7,000人の非武装の男子や少年を殺害した。第2次世界大戦後にヨーロッパで起こった最悪の虐殺であった。1999年の報告の中で、事務総長は、スレブレニッツァを頂点とした民族浄化キャンペーンに対する国連と加盟国の対処の誤りを認め、この悲劇は「われわれの歴史に永遠に付きまとうであろう」と述べた。

1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、ユーゴスラビアの間に合意が見られ、42カ月間続いた戦争は終わった。合意が確実に守られるようにするため、安全保障理事会は、NATO主導の実施部隊(Implementation Force: IFOR)の展開を承認した。これは6万人の兵力を持つ多国籍軍であった。理事会は、また、国連国際警察タスクフォース(United Nations International Police Task Force)を設立した。これはより規模の大きい国連ボスニア・ヘルツェゴビナ・ミッション(United Nations Mission in Bosnia and Herzegovina: UNMIBH)に吸収された。ミッションは難民と避難民の帰還を可能にし、平和と安全を育み、国の行政機構の整備を支援した。1996年、理事会は国連プレブラカ監視団(United Nations Mission of Observers in Prevlaka: UNMOP)を設置し、プレブラカ半島の非武装化を監視させた。この半島はユーゴスラビアが獲得しようと争うクロアチアの戦略地域であった。UNMIBHとUNMOPは2002年末で任務を終了した。

コソボ

1989年、ユーゴスラビア連邦共和国はコソボの地方自治を無効にした。コソボはユーゴスラビアの南部にある州で、セルビア人にとって歴史的に重要な地域であったが、住民の90パーセント以上が民族的にはアルバニア人であった。コソボのアルバニア人は反発し、自治を求めてセルビア国家機関や行政当局をボイコットした。緊張が高まり、1996年、武力による独立を求めてコソボ解放軍(KLA)が表面に出てきた。KLAは、セルビア人役人やセルビア政権と協力するアルバニア人を対象に攻撃を開始した。セルビア当局は大量逮捕の形でそれに応えた。1998年3月、セルビア人警察が表面上はKLAメンバーを探すとの口実で、ドレニカ地域を一掃したため、戦闘が始まった。安全保障理事会はコソボも含め、ユーゴスラビアに対する武器禁輸を決めたが、事態は悪化を続け、公然とした戦争になるまでになった。

ついで1999年、NATOは、ユーゴスラビアに警告を発し、かつセルビア人のコソボ攻撃を念頭に置きながら、ユーゴスラビアに対する空爆を開始した。事務総長は、外交が失敗に終わったことは悲劇であると述べた。「武力の行使が平和の追求において正当でありうる」時もあったが、そうしたいかなる決定においても安全保障理事会が関与しなければならない、と事務総長は強調した。ユーゴスラビア軍はKLAに対して大攻撃を仕掛け、ユーゴスラビアはアルバニア系住民の大量国外追放を開始した。これによって未曾有のおよそ85万人の難民が流出することになった。UNHCRと他の人道機関は、アルバニアとマケドニア旧ユーゴスラビア共和国へ急行し、難民の支援にあたった。ユーゴスラビアは8カ国グループ(西欧の先進工業国7カ国とロシアで構成)提案の和平計画を受諾した。安全保障理事会は同計画を支持し、敵対行為を抑制し、KLAの非武装化を図り、難民の帰還を可能にさせる治安部隊を設置する権限を加盟国に与えた。理事会は、暫定的な国際文民行政機関を設置し、コソボの人々が持続可能な自立と自治を享受できるようにした。ユーゴスラビア軍は撤退した。NATOは爆撃を停止し、5万人の多国籍「国際安全保障部隊Kosovo Force(KFOR)」が治安確保のために到着した。

国連コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo: UNMIK)が直ちに設立された。その任務はその複雑性や規模の点で未曾有のものであった。安全保障理事会は、すべての立法権、行政権、司法の運営を含め、コソボとコソボ住民を統治する権限をUNMIKに与えた。戦争中に逃げたおよそ85万人の難民のうち少なくとも84万1,000人が帰還した。まず行わなければならなかったことは、到来しつつある冬の極寒から彼らを守ることであった。この目標は達成された。UNMIKの貢献によって、平常生活が取り戻され、長期的な経済の再建の道が開かれた。KLA は1990年9月までに全員武装解除され、市民社会へ社会復帰した。停戦に続く数カ月の間に、合同委員会が、コソボからセルビアやモンテネグロへと逃れていっていたおよそ21万人の非アルバニア系コソボ住民を安全に帰還させた。残りの非アルバニア系少数者は、KFORに守られた孤立した飛び地に住んだ。

2001年、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所は、「コソボのコソボ・アルバニア系住民に対する組織的攻撃」の間に人道に対する罪を犯したとしてスロボダン・ミロシェビッチ元ユーゴスラビア大統領とその他の4人を起訴した。弁護人が答弁書をほとんど終えたとき、ミロシェビッチは2006年に拘留中に自然死した。彼は、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、コソボでの集団殺害罪、人道に対する罪、戦争犯罪など、66件の訴因で訴えられていた。

同じく2001年、安全保障理事会は武器禁輸を解除した。11月、120人のコソボ議会議員が選出された。議会は2002年に最初の大統領と首相を選出した。12月、UNMIKは、責任の現地暫定機関への委譲が完了した。しかし、治安、対外関係、少数者の権利の保護、エネルギーについては、コソボの最終地位が決まるまで、UNMIKが管理することになった。

2006年、事務総長特使は4回にわたる当事者間の直接交渉とセルビア、コソボのトップ間の最初のハイレベル会合を行った。しかし、コソボのアルバニア系政府とセルビアはまったく異なる意見であった。2007年2月、彼は「譲歩提案」として最終的な地位計画を提出した。しかし、当事者は応じなかった。その後、特使はコソボに残された唯一の選択肢は独立であると報告した。独立はセルビアが一貫して反対していた。その年の後半、事務総長は、欧州連合、ロシア、アメリカの3者から構成されるトロイカがコソボの将来の地位についてさらに交渉を進めるとの合意を歓迎した。しかし、当事者は合意に達することはできなかった(www.unmikonline.orgを参照)。

2008年、コソボ議会は独立宣言を採択した。2010年、国際司法裁判所は、宣言に関する勧告的意見を発表し、独立宣言は国際法に違反するものではないと述べた。9月までに、192の国連加盟国のうちの70カ国がコソボを国立国家として承認した。一方、セルビアは、コソボは自国領土の一部だと述べた。同時に、事務総長は、欧州連合の緊密な調整のもとにベオグラードとプリシュティナ間の対話のプロセスに貢献する用意があることを再確認した。