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ミャンマー出典「国連の基礎知識」

ミャンマーの軍事指導部が1990年の民主的選挙を無効にして以来、国連は包括的な国民和解のプロセスを通して民主主義への復帰や人権状況を改善するための支援を申し出てきた。1993年、総会は、早急な民主主義への復帰を訴え、そのプロセスについてミャンマー政府を支援するよう事務総長に要請した。事務総長は、そのために「あっせん」を利用しながら、すべての関連当事者との対話を行わせるために継続的に特使を任命した。

総会は、1993年以来事務総長の「あっせん」の任務を毎年更新した。この任務を通して、国連は4つの主要領域での進展を期待した。すなわち、政治犯の釈放、より包括的な政治プロセス、国境地帯での敵対行為の停止、そして人道援助提供のための環境作り、であった。20042006年の期間には国連と政府との間にハイレベルの対話がなかったが、国連「あっせん」ミッションが2006年に再開され、国連政務担当事務次長がミャンマーを訪問した。事務次長はのちに藩基文事務総長によって事務総長ミャンマー特別顧問に指定された。2007年に特別顧問はさらに2度ミャンマーを訪問し、ミャンマーの政府幹部と軟禁中の反政府勢力の指導者、ダウ・アウン・サン・スウ・チーとその政党、国民民主連盟(NLD)に会った。特別顧問は、また、ヨーロッパやアジアの国々も含め、関心ある主要な加盟国と一連のハイレベルの協議を行った。10月、安全保障理事会は、議長声明を発表し、事務総長の「あっせん」ミッションに対する「強力かつゆるぎない支援」を表明した。

安全保障理事会は2008年に、政府が「包括的かつ信頼しうるプロセスへ導くような条件を確立し、かつ環境を整える」必要を強調したが、新憲法に関してその年に行われた住民投票は、国際社会から非難された。新憲法は、憲法草案を承認した軍指導の下に起草された憲法であった。2009年、事務総長は政府の招待を受けてミャンマーを訪問した。事務総長はアウン・サン・スウ・チーを含め全政治犯の釈放、政府と野党との実質的な対話、信頼に足る正当な選挙へと導くような条件を創り出すことを主張した。しかし、その年の8月、アウン・サン・スウ・チーは3年間の重労働の判決を受けた。それは18カ月の自宅監禁に代えることができた。その判決は事務総長も非難した。ミャンマーの人権状況を監視し、報告する国連特別報告者は2010年2月、政府の招待を受けて同国を訪問した。特別報告者の任務は1992年に確立されていた。

2010年3月、政府は選挙に関連した新しい法律を承認した。政党登録法は服役中の人が投票を行い、または政党のメンバーになることを禁じた。これは自宅軟禁から自由にならない限り、事実上アウン・サン・ス・チーが選挙に参加することを妨げるものであった。事務総長は、新しい選挙法は、「包括的な政治プロセスに求められる国際的期待」に応えるものではないと述べた。

そして5月、サイクロンがイラワジ・デルタを襲い、何万人もの人々が死に、行方不明となった。120万人から190万人の人々がその影響を受け、家を失い、疾病と飢餓の危機にさらされたと思われる。国連機関は支援を申し出たが、政府が承認したのは限られた支援だけで、外国人の支援要員のアクセスを制限した。事務総長は、「重大な人道的危機に対してあまりにも遅い対応に深い懸念と大きな失望」を表明し、国際支援を受け入れるよう政府を説得するためにミャンマーを訪問した。会談後、ミャンマーは人道的要員を受け入れ、彼らは6月早々に到着し始めた。また、支援活動は東南アジア諸国連合(Association of Southeast Asia: ASEAN)によって主導されることになった。これを通して、ASEAN・国連・ミャンマーの三者機構が成立された。

その年の後半、総会議長は、特別顧問の8月のミャンマー訪問について説明を受けた後に、「総会の指示に従ってミャンマーにおける国民和解、民主主義、人権の尊重を促進する」任務を続けるよう要請した。事務総長は、「ミャンマーが関与しないことに非常に欲求不満を感じる」と述べ、それは「国連に協力すると述べた政策に反する」と述べた。2010年11月、事務総長は、その月の選挙――ミャンマーにおいてこの20年間で最初の選挙である、かつ独立以来の60年間における第3回目の複数政党制の選挙――は、十分に包括的ではなく、かつ一般参加型でも透明でもなかった、と述べ、政治犯の釈放を呼びかけた。