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中東出典「国連の基礎知識」

国連はその発足後間もない頃から中東問題にかかわってきた。国連は平和的解決のための原則を作成し、各種の平和維持活動を派遣した。国連は今でもその根底にある政治問題の公正かつ恒久的、包括的解決を目指して各種の支援を続けている。

問題の発端はパレスチナ人の地位の問題であった。1947年、パレスチナは、国際連盟の委任統治のもとにイギリスが施政する地域であった。人口はおよそ200万人で、3分の2がアラブ人で、3分の1がユダヤ人であった。総会は1947年、国連パレスチナ特別委員会(United Nations Special Committee on Palestine)が作成したパレスチナ分割計画を支持した。

それは、アラブ人の国家とユダヤ人の国家を作り、エルサレムを国際的地位の下におくというものであった。しかし、その計画はパレスチナ・アラブ人、アラブ諸国、その他の国によって拒否された。

1948年5月14日、イギリスはパレスチナに対する委任統治を終わらせ、ユダヤ機関はイスラエル国家の建国を宣言した。その翌日、パレスチナ・アラブ人はアラブ諸国の援助を受けて新国家に対する戦争を開始した。安全保障理事会が行った休戦要求を受けて戦闘が停止し、総会が任命した調停官がその監視にあたった。調停官は「国連休戦監視機構(United Nations Truce Supervision Organization: UNTSO)」として知られるようになった軍事監視グループの支援を受けた。これは国連が設立した最初の監視団である。

戦争の結果、およそ75万人のパレスチナ・アラブ人が家と生計を失い、難民となった。これらの難民を援助するために、総会は1949年に「国連パレスチナ難民救済事業機関(United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East: UNRWA)」を設置した。それ以来UNRWAは主要な援助提供者であると同時に、中東における安定の力となってきた。

中東問題の解決が見られないままに、アラブとイスラエルの対立が1956年、1967年、1973年に再び戦争へと拡大した。そのつど加盟国は国連の調停と平和維持活動を求めた。1956年戦争によって第一次国連緊急軍(United Nations Emergency Force: UNEFI)が展開された。国連緊急軍は軍隊の撤退を監視し、地域の平和と安定に貢献した。

1967年の戦争は、イスラエルとエジプト、ヨルダン、シリアとの間に起こった。イスラエルはシナイ半島とガザ地区、東エルサレムを含むヨルダン川の西岸、シリアのゴラン高原の一部を占領した。安全保障理事会は停戦を呼びかけ、ついでエジプト・イスラエル間の停戦を監視する監視団を派遣した。

理事会は、決議242(1967)によって中東における公正かつ恒久的な平和のために以下のような原則を定めた。すなわち、1967年戦争によって占領された地域からイスラエル軍が撤退すること、すべての要求および交戦状態を終結させ、かつこの地域におけるすべての国家の主権、領土保全、政治的独立、および、武力による威嚇もしくは武力の使用から解放された、安全かつ承認された国境線内において平和に生活する権利を尊重し、承認すること、であった。決議はまた、「難民問題の公正な解決」の必要も確認した。

イスラエルとエジプト、シリア間の1973年戦争の後、安全保障理事会は決議338(1973)を採択し、決議242の原則を再確認し、「公正かつ恒久的平和」の実現を目指した交渉を呼びかけた。これらの決議は中東の包括的解決の基礎となっている。

1973年の停戦を監視するために、安全保障理事会は2つの平和維持軍を設立した。そのうちの1つが国連兵力引き離し監視軍(United Nations Disengagement Observer Force: UNDOF)」で、イスラエルとシリア間の兵力引き離し協定の実施を監視する。UNDOFは現在もゴラン高原に駐留している。もう1つはシナイ半島に展開された第二次国連緊急軍(UNEF II)であった。

その後、総会は国連主催の中東に関する国際平和会議の開催を何回となく呼びかけた。1974年、総会はオブザーバーとして総会の作業に参加するようパレスチナ解放機構(PLO)を招請した。翌年、総会はパレスチナ人民の固有の権利行使に関する委員会(パレスチナ委員会)を設置した。パレスチナ委員会は現在も総会の補助機関として、パレスチナ人民の権利とパレスチナ問題の平和的解決を支援している。

アメリカの調停によるエジプト・イスラエルの2国間交渉の結果、キャンプ・デービッド合意(1978年)とエジプト・イスラエル平和条約(1979年)が生まれた。イスラエルはシナイ半島から撤退し、シナイ半島はエジプトへ返還された。1994年にはイスラエルとヨルダンの間にも平和条約が結ばれた。

レバノン

1975年4月から1990年10月まで、レバノンは内戦で引き裂かれていた。当初、南部レバノンは一方にパレスチナ・グループ、他方にイスラエル軍と現地レバノン人支持部隊との間の戦闘の舞台となっていた。パレスチナ・ゲリラがイスラエルを襲撃したことに対抗してイスラエル軍が1978年に南部レバノンに侵攻したため、安全保障理事会は決議425と426を採択し、イスラエルの南部レバノン撤退を要請し、国連レバノン暫定軍(United Nations Interim Force in Lebanon: UNIFIL)」を設立した。暫定軍はイスラエル軍の撤退を確認し、国際の平和と安全を回復し、かつレバノンがこの地に権威を回復できるように援助することを任務とした。1982年、南部レバノンとイスラエル・レバノン国境地帯で激しい銃撃戦が行われた。イスラエル軍はレバノン国内へ移動し、ついにはベイルートに達し、それを包囲した。イスラエルは1985年にレバノン国土のほとんどから撤退したが、南部レバノンの一角を支配しつづけた。その地域はUNIFILの展開地域と一部重複しているが、イスラエル軍と支持部隊は駐留を続けた。レバノン・グループとイスラエル、支持部隊との戦闘が続いた。2000年5月、イスラエル軍は1978年安全保障理事会決議に従って撤退した。理事会は、レバノンの権限再確立についてレバノンを援助するとの事務総長計画を承認した。しかし、南部レバノンからイスラエルの撤退をマークする「ブルー・ライン」に沿った情勢は不安定なものであった。

2005年2月14日、緊張がエスカレートし、ラフィク・ハリリ元レバノン首相が暗殺された。11月、安全保障理事会は暗殺の容疑者を裁く特別法廷の設置を支持した。4月、国連はレバノンからシリアの軍隊、軍事資産、情報活動の撤退を検証した。5月と6月、国連の援助の下で議会選挙が行われた。2005年から2006年かけて「ブルー・ライン」の重大な侵害が続いた。イスラエルとヒズボラとの間に断続的な衝突も見られた。2人のイスラエル兵が2006年7月12日にヒズボラの民兵に捕らえられ、イスラエルは大規模な空爆によってそれに応えた。ヒズボラはイスラエル北部に対するロケット弾攻撃でそれに応じた。安全保障理事会決議1701(2006)の規定に従って8月に戦闘が終わった。決議は敵対行為の即時停止とそれに続くレバノン部隊の展開を求めた。それに加え、UNIFILの平和維持プレゼンスを南部レバノンまで拡大することと同じ地域からのイスラエル軍の撤退も求めていた。決議の漸進的実施に伴い、大量の国連援助物資がレバノンに運ばれた。平和維持要員の増員部隊も同地へ派遣された。UNIFILが直面する重大な問題は、34日戦争で残された100万個近い不発弾がもたらす危機である。2007年4月、レバノン・シリア国境を越えた武器禁輸の違反報告を懸念し、安全保障理事会は、国境の監視を評価する独立ミッションを派遣するよう事務総長に要請した。国境では監視が行われていなかった。事務総長は事態改善の行動を提案した。

2007年、パレスチナ難民キャンプで過激派とレバノン部隊との間に戦闘が起こった。ベイルート周辺での一連の爆発事件、その1つによって1人のレバノン人議員と他の9人が殺された。UNIFILに対する攻撃、これによって6人の平和維持員が殺された。ロケット弾がイスラエルへ発射された。2008年、親政府部隊と反政府部隊との間に衝突があった。ヒズボラはベイルートの空港と道路を封鎖した。国際連合は平和的な対話に入るよう全当事者に要請した。5月、カタールのドーハにおいて、危機を終わらせる6項目の合意が達成された。しかし、その年の暮れまで時々衝突が続いた。シリアとの関係が改善され、2国間の外交関係が改善され、2008年10月には両国間に外交関係が樹立された。

事務総長は2009年6月の平和的な議会選挙の実施を歓迎した。サアド・ハリリ率いる連合がヒズボラの連立を打ち破って議会で多数を勝ち取った。新しく選出されたハリリ首相は、11月に国民統一政府を樹立させた。2011年初め、統一政府は崩壊した。それは、2005年のラフィク・ハリリとその他の人々の暗殺の調査に起因する議論についてヒズボラとその同調者が辞職したからであった。5日後、レバノン特別法廷の検察官は、ハリリ氏への攻撃に関連した起訴を行った。起訴状は裁判所書記にファイルされ、審理前判事に提出される。

中東和平プロセス

1987年、パレスチナの独立と建国を求めて、パレスチナ人による蜂起(インティファーダ)が西岸とガザ地区の被占領地で始まった。1988年、パレスチナ民族評議会(PNC)はパレスチナ国家の樹立を宣言し、国連総会はその宣言を承認した。総会は、そのオブザーバーとしての地位を損なうことなく、国連システムの中でパレスチナ解放機構(PLO)を指す場合は「パレスチナ」と呼ぶことに決定した。1993年9月10日、マドリッドで行われた会談とノルウェーの仲介による交渉の結果、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)は1993年9月10日に相互承認を行った。3日後、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)はワシントンDCにおいて「暫定自治の取り決めに関する原則の宣言」に署名した。国連は、ガザとジェリコの社会経済開発に関するタスクフォースを設置した。また、国連支援の特別調整官を任命した。特別調整官の任務は1999年に拡大され、中東和平プロセスに対するあっせんの援助も含まれることになった。

ガザ地区とジェリコにおけるイスラエルからパレスチナ自治政府へ権限の委譲は、1994年に始まった。1年後、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)は西岸におけるパレスチナ人民の自治に関する協定に署名した。協定は、イスラエル軍の撤退と西岸における民生権限を、選出されたパレスチナ評議会へ委譲することを決めたものであった。1996年、ヤセル・アラファトPLO執行委員会議長が自治政府の議長に選ばれた。1999年の暫定合意によって、西岸からイスラエル軍の再展開、捕虜に関する合意、西岸とガザ間の安全な通行の開始、パレスチナの最終地位などに関する交渉の再開をもたらした。しかし、アメリカの調停のもとに開かれたハイレベルの和平会談は、2002年半ばに結論に達することなく終わった。未解決の問題として残ったのは、エルサレムの地位、パレスチナ難民問題の解決、安全保障、国境問題、イスラエルの入植問題などであった。

その年の9月、新しい抗議と暴力の波が始まった。安全保障理事会は、繰り返し暴力の中止を呼びかけ、イスラエルとパレスチナの2国家が安全かつ国際的に認められた国境線の中で共に生活するとのビジョンを確認した。両当事者を交渉のテーブルに戻すための国際的努力は、アメリカ、国連、欧州連合、ロシア連邦の4者で構成される「カルテット」機構を通して行われることが多くなった。2003年4月、「カルテット」は、2つの国家による恒久的解決へ導く「ロードマップ」(行程表)を当事者に提示した。これは2005年までに紛争の解決を図ることを目的に、両当事者による並行かつ相互の手段を求めていた。また、シリア・イスラエル、レバノン・イスラエルの問題も含め、中東紛争の包括的解決も想定していた。理事会は決議1515(2003)でロードマップを支持し、両当事者もそれを受諾した。それにもかかわらず、2003年後半には暴力が急激に拡大した。国連中東和平プロセス特別調整官は、いずれの側も他方の懸念に積極的に応えなかった、とのべた。イスラエルにとっては、安全保障とテロリスト攻撃が関心事であるのに対し、パレスチナにとっては1967年戦争以前の境界線に基づき、発展を続ける独立国家が関心事であった。パレスチナ人の自爆テロが続き、イスラエルは西岸に「分離壁」の建設を強行した。その後、総会の要請を受けて、国際司法裁判所は、分離壁の建設は国際法に違反するとの勧告的意見を述べた。

2004年初め、アリエル・シャロン・イスラエル首相は、イスラエルはガザから軍隊と入植を撤退させると発表した。11月、ヤーセル・アラファト・パレスチナ暫定自治政府議長が死亡し、2005年1月、国連の技術・後方支援の下で行われた選挙でマウムード・アッバスが後任に選ばれた。2月、シャロン首相とアッバス議長がエジプトで会談し、暴力停止の措置を発表した。6月に再び会談し9月までにイスラエルの撤退が完了した。ついに、交渉による解決に向けて真の進展が見られると思われた。そうした楽観があったにもかかわらず、政治的展望を変えてしまった2つの出来事が2006年1月に起こった。シャロン首相は重い脳卒中にかかり、昏睡状態に陥った。そして、議会選挙では、パレスチナ人民は強硬派のハマスに投票し、ハマス派が第一党となった。カルテット、その他の訴えにもかかわらず、ハマスはイスラエルの生存権を認めなかった。エフド・オルメルト首相の率いる新イスラエル政府は、全パレスチナ暫定自治政府はいまやテロリスト機関となった、との立場をとり、パレスチナの税収を凍結した。暴力はエスカレートし、ガザからイスラエルへのロケット弾の発射やそれに対するイスラエルの大規模な報復攻撃が見られるようになった。国際援助国はハマス主導の政府への財政支援に消極的となった。暴力を放棄し、イスラエルの生存権を認め、これまで署名した合意を順守することを約束しないからであった。西岸やガザでの人道的状況が悪化した。

2007年5月に入って、ハマス戦闘員および「執行部隊」メンバーと暫定自治政府治安部隊およびファタ武装グループとの間で衝突が繰り返され、68人が死亡、200人以上が負傷した。その結果、パレスチナ自治政府が西岸を支配し、ハマスがガザ地区を支配することになった。ガザからイスラエル南部へのロケット弾攻撃もエスカレートし、戦闘員やその施設を目標としたイスラエルの空爆も続いた。2008年末にかけて、ガザからの相次ぐロケット砲攻撃を受けて、イスラエルは同地域に対する軍事作戦を開始し、それが最後に地上侵攻までになった。2009年初め、安全保障理事会は決議1860(2009)を採択し、即時停戦とガザからイスラエル軍の撤退を求め、また、暴力とテロ行為を非難した。事務総長は停戦を求めて中東を訪問した。集中的な外交努力の結果、イスラエルは1月半ばに一方的な停戦を発表し、ハマスも一方的な停戦を発表した。

同じ月、国連人権理事会は紛争の調査を承認し、その後まもなくリチャード・ゴールドストンを調査団の団長に任命した。9月の報告書は、なかんずく、安全保障理事会がイスラエルとガザ当局による調査を監視することを勧告した。報告書の結論は、双方とも戦争法に違反したということであった。2カ月後、総会は決議64/10でゴールドストーン報告を支持し、「安全保障理事会による行動も含め、より一層の行動を検討することを視野に入れて」決議の実施に関して報告するよう事務総長に要請した。

カルテットは、交渉によって最終的に問題を解決し、かつ中東問題の解決を図るべきだと繰り返した。2010年3月、カルテットはすべての入植活動を凍結するようイスラエルに要請し、一方的な行動は国際社会によって承認されないことを再確認し、エルサレムの問題は依存として未解決の問題だと強調した。9月、1年という時間を限定して、イスラエルとパレスチナとの直接交渉をワシントン、D.C.で開始した。しかし、西岸における入植建設に関するイスラエルの部分的な一時停止が終了した。パレスチナは、イスラエルが凍結を延長しなければ交渉を拒否すると述べた。