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中東出典「国連の基礎知識」

国連はその発足後間もない頃から中東問題にかかわってきた。国連は平和的解決のための原則を作成し、各種の平和維持活動を派遣した。国連は今でもその根底にある政治問題の公正かつ恒久的、包括的解決を目指して各種の支援を続けている。

問題の発端はパレスチナ人の地位に関する問題であった。パレスチナは元オスマントルコ帝国の領土の一部で、1922年に国際連盟によってイギリスの施政下に置かれた。これらの地域はパレスチナを除いてすべて独立国家となった。パレスチナに関しては、イギリスが「行政支援や助言を提供する」ことに加え、イギリスの委任統治には「ユダヤ人の民族的郷土を樹立」することを支持することを表明した1917年の「バルフォア宣言」が組み込まれていた。1922年から1947年にかけての委任統治の間にユダヤ人の大規模な移住が主に東欧諸国から行われた。アラブ人の独立の要求とユダヤ人の移住に対する抵抗が1937年に反乱にまで発展し、その後も双方の側からの暴動が続いた。

1947年、イギリスはパレスチナ問題を国連へ持ち込んだ。当時のパレスチナの人口はおよそ200万人で、3分の2がアラブ人で、3分の1がユダヤ人であった。国連加盟57カ国の総会は1947年11月29日、イギリスの委任統治が終了する1948年5月にパレスチナを分割するとの国連パレスチナ特別委員会(United Nations Special Committee on Palestine)が作成した計画を支持した。計画は、アラブ人の国家とユダヤ人の国家を創設し、エルサレムを国連に代わって信託統治理事会が管理する特別国際レジームのもとに置くことを規定していた。しかし、その計画はパレスチナ・アラブ人、アラブ諸国、その他の国によって拒否された。パレスチナ問題は急速にこれらの国々とイスラエルとの間の中東紛争にまで発展した。1948年5月14日、イギリスはパレスチナに対する委任統治を終わらせ、ユダヤ機関はイスラエル国家の建国を宣言した。その翌日、パレスチナ・アラブ人はアラブ諸国の援助を受けて新国家に対する戦闘を開始した。安全保障理事会が行った休戦要求を受けて軍事対決は停止し、総会が任命した調停官がその監視にあたった。調停官は「国連休戦監視機構(United Nations Truce Supervision Organization: UNTSO)」として知られるようになった軍事監視グループの援助を受けた。これは国連が設立した最初の監視団であった(https://untso.unmissions.org/)。

戦闘の結果、およそ75万人のパレスチナ・アラブ人が家と生計を失い、難民となった。これらの難民を援助するために、総会は1949年に「国連パレスチナ難民救済事業機関(United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East: UNRWA)」(www.unrwa.org)を設置した。それ以来UNRWAは援助の主要な提供者であると同時に、中東における安定の力となってきた。現在、500万人のパレスチナ難民がヨルダン、レバノン、ガザ地区、シリア・アラブ共和国、それに東エルサレムを含む西岸に住んでUNRWA の援助を受けている。

中東問題の解決が見られないままに、アラブとイスラエルの対立が1956年、1967年、1973年に再び戦争へと拡大した。そのつど加盟国は国連の調停と平和維持活動を求めた。1956年戦争によって第一次国連緊急軍(United Nations Emergency Force: UNEF I)が展開された。国連緊急軍は軍隊の撤退を監視し、地域の平和と安定に貢献した。

1967年の戦争は、イスラエルとエジプト、ヨルダン、シリアのアラブ諸国との間に起こった。この戦争でイスラエルはシナイ半島とガザ地区、東エルサレムを含むヨルダン川の西岸、シリアのゴラン高原の一部を占領した。安全保障理事会は停戦を呼びかけ、ついでエジプト・イスラエル間の停戦を監視する監視団を派遣した。

理事会は、決議242(1967)によって中東における公正かつ恒久的な平和のために以下のような原則を定めた。すなわち、1967年戦争によって占領された地域からイスラエル軍が撤退すること、すべての要求および交戦状態を終結させ、かつこの地域におけるすべての国家の主権、領土保全、政治的独立、および、武力による威嚇もしくは武力の使用から解放された、安全かつ承認された国境線内において平和に生活する権利を尊重し、承認すること、であった。決議はまた、「難民問題の公正な解決」の必要も確認した。

イスラエルとエジプト、シリア間の1973年戦争の後、安全保障理事会は決議338(1973)を採択し、決議242の原則を再確認し、「公正かつ恒久的平和」の実現を目指した交渉を呼びかけた。これらの決議は中東の包括的解決の基礎となっている。

1973年の停戦を監視するために、安全保障理事会は二つの平和維持軍を設立した。そのうちの一つがシナイ半島に展開された第二次国連緊急軍(UNEF II)で、エジプトとイスラエル間の停戦を監視する目的で派遣された。他の一つは国連兵力引き離し監視軍(United Nations Disengagement Observer Force: UNDOF)」(https://undof.unmissions.org/)で、1974年に設立され、現在もゴラン高原に駐留している。UNDOF はイスラエルとシリア間の兵力引き離し協定および分離地帯および制限に関する議定書の実施を監視する。また、停戦を維持し、かつそれが順守されるように最善を尽くす。

2012年以来、シリアで進行中の紛争はUNDOFとその任務を果たす方法に大きな影響を及ぼした。UNDOF平和維持要員に対する攻撃は、周知のように、2014年の8月と9月に行われた。UNDOFは一時的に部隊の大部分を分離地帯の外に再配置させ、現状に合わせた作戦を採択した。UNDOFによって空白となった拠点への限定された、漸進的復帰は、2016年秋に始まった。兵力引き離し協定の数多くの重大な違反にもかかわらず、両当事者は同協定に対する継続するコミットメントとUNDOFへの支持を繰り返し述べた。

1973年の停戦に続いて、総会は国連主催のもとに中東に関する国際和平会議の開催を呼びかけた。1974年、総会はオブザーバーとして総会の作業に参加するようパレスチナ解放機構(PLO)を招請した。翌年、総会はパレスチナ人民の固有の権利行使に関する委員会(パレスチナ委員会)(https://www.un.org/press/en/content/committee-on-the-inalienable-rights-of-the-palestinian-people)を設置した。パレスチナ委員会は現在も総会の補助機関として、パレスチナ人民の固有の権利の実現とパレスチナ問題の平和的解決を支援している。委員会は28カ国と24人のオブザーバーで構成される。その任務は、「パレスチナ人民連帯国際デー」の記念行事の一環として毎年11月29日に総会によって更新される。委員会はまた、国際的な会合や会議を開催し、市民社会機関と協力し、パレスチナ問題に関する膨大な刊行物や文書を収集している。

中東和平プロセス(1987‒2016年)1987年、パレスチナの独立と建国を求めて、パレスチナ人による蜂起(インティファーダ)が西岸とガザ地区の被占領地で始まった。1988年、パレスチナ民族評議会(PNC)はパレスチナ国家の樹立を宣言し、国連総会はその宣言を承認した。総会は、また、そのオブザーバーとしての地位を損なうことなく、国連システムの中でパレスチナ解放機構(PLO)を指す場合は「パレスチナ」と呼ぶことに決定した。

1993年9月、マドリッドで行われた会談とノルウェーの仲介による交渉の結果、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)は相互承認を行い、「暫定自治の取り決めに関する原則の宣言」に署名した。国連は国連支援特別調整官(Special Coordinator for UN Assistance: UNSCO)(https://dppa.un.org/en/mission/unsco)を任命した。任務は中東和平プロセスへの斡旋を含むように1999年に拡大された。特別調整官は、その後、中東カルテットへの事務総長特使となった。カルテットは欧州連合、ロシア連邦、アメリカ、そして国連で構成される。これによってUNSCOの役割はさらに方向づけることになる。

イスラエルからガザ地区とジェリコのパレスチナ自治政府(PA)への権限の委譲は、1994年に始まった。1年後、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)は西岸におけるパレスチナ人民の自治に関する合意に署名した。合意は、イスラエル軍の撤退と西岸における民生権限を選出されたパレスチナ評議会へ委譲することを決めたものであった。1996年、ヤーセル・アラファトPLO執行委員会議長が自治政府の議長に選ばれた。1999年の暫定合意によって、西岸からイスラエル軍の再展開、捕虜に関する合意、西岸とガザ間の安全な通行の開始、パレスチナの最終地位などに関する交渉が再開された。しかし、アメリカの調停のもとに開かれたハイレベルの和平会談は、2002年半ばに結論に達することなく終わった。未解決の問題として残ったのは、エルサレムの地位、パレスチナ難民問題、安全保障、国境問題、イスラエルの入植問題などであった。

2000年9月、新しい暴力の波が始まった。安全保障理事会は、繰り返し暴力の中止を呼びかけ、イスラエルとパレスチナの二国家が安全かつ国際的に認められた国境線の中で共に生活するとのビジョンを確認した。両当事者を交渉のテーブルに戻すための国際的努力は、アメリカ、国連、欧州連合、ロシア連邦の4者で構成される「中東カルテット」機構を通して行われることが多くなった。

2003年4月、「カルテット」は、二つの国家による恒久的解決へ導く「ロードマップ」(行程表)を当事者に提示した。これは2005年までに紛争の解決を図ることを目的に、両当事者が互いに並行してとるべき措置を求めていた。また、シリア・イスラエル、レバノン・イスラエルの問題も含め、中東紛争の包括的解決も想定していた。理事会は決議1515(2003)でロードマップを支持し、両当事者もそれを受諾した。それにもかかわらず、2003年後半には暴力が急激に拡大した。

2005年、イスラエルはガザ地区から軍隊と入植者を一方的に撤退させた。2月、アリエル・シャロン・イスラエル首相とアッバス議長がエジプトで会談し、暴力停止の措置を発表した。6月に再び会談し、9月までにはイスラエルの撤退が完了した。こうした明るい進展があったにもかかわらず、政治的展望を変えてしまった二つの出来事が2006年1月に起こった。シャロン首相は脳卒中にかかり、昏睡状態に陥った。そして、議会選挙では、パレスチナ人は強硬派のハマスに投票し、ハマス派が第一党となった。

カルテットやその他の訴えにもかかわらず、ハマスはイスラエルの生存権を公式に認めなかった。エフド・オルメルト首相の率いる新イスラエル政府は、全パレスチナ暫定自治政府はいまやテロリスト機関となった、との立場をとり、パレスチナの税収を凍結した。暴力はエスカレートし、ガザからイスラエルへのロケット弾の発射やそれに対するイスラエルの大規模な報復攻撃が見られるようになった。国際援助国はハマス主導の政府への財政支援に消極的となった。暴力を放棄し、イスラエルの生存権を認め、これまで署名した合意を順守することを約束しないからであった。西岸やガザでの人道的状況が悪化した。

2007年5月に入って、パレスチナ人内での衝突が繰り返され、統治が変わった。パレスチナ自治政府が西岸を支配し、ハマスがガザ地区を支配することになった。2008年末にかけて、ガザからの相次ぐロケット砲攻撃を受けて、イスラエルは同地域に対する軍事作戦を開始し、それが最終的には地上侵攻にまで発展した。その作戦の結果、人道状況が悪化し、ガザの3年封鎖と閉鎖が強化された。国連施設も含め、インフラが甚大な損害を被り、何百人という市民が死んだ。そのほとんどがパレスチナ人であった。2009年、安全保障理事会は決議1860(2009)を採択し、即時停戦とガザからイスラエル軍の撤退を求め、同時に暴力とテロ行為を非難した。集中的な外交努力の結果、イスラエルは1月半ばに一方的な停戦を発表し、ハマスも一方的な停戦を発表した。国連人権理事会は、南アフリカの元判事のリチャード・ゴールドストンのもとに紛争についての調査を行い、2009年9月の報告書のなかで双方とも人道に対する罪に相当する違反を行った、との結論を述べた。

2010年3月、カルテットはすべての入植活動を凍結するようイスラエルに要請し、一方的な行動は国際社会によって承認されないことを再確認した。また、エルサレムの地位の問題は依然として今後解決すべき問題だと強調した。9月、1年という期間を限定して、イスラエルとパレスチナとの直接交渉をワシントンD.C.で開始した。しかし、西岸における入植建設に関するイスラエルの部分的なモラトリアムが終了したことを受けて、会談も終了した。パレスチナは、イスラエルがモラトリアムを延長しなければ交渉を拒否すると述べた。

2011年9月、カルテットはイスラエル、パレスチナの二国間直接交渉を遅滞なく、前提条件なしで再開するよう訴え、交渉を成功させるのに必要な信頼を再構築する具体的な措置を提案した。

2011年10月、ユネスコ総会はパレスチナの加盟を承認した。2012年4月、カルテットは2012年初めにアンマンで開かれたイスラエル、パレスチナの予備会談を支持した。しかし、11月にイスラエルとガザとの間に新たな戦闘が始まった。これはエジプトの仲介によって停戦が実現し、戦闘は終わった。

2012年11月29日、国連総会は、パレスチナを国連にオブザーバーとしての地位を持つ非加盟国として認めた。パレスチナ人民の代表として国連における既得権、特権、PLOの役割は損なうことはないとした。

2013年3月、アメリカは直接対話を開始したが、国民合意政府の樹立についてパレスチナ内に統一した合意があるとの発表を受けて、2014年4月にイスラエルによって停止された。イスラエルは前に提案していた捕虜の残りを釈放することも拒否した。

ガザからイスラエルへ向けたロケットや迫撃砲による攻撃が急増したことに応えて、イスラエルは2014年7月4日、「プロテクティブ・エッジ(守りの尖端)」作戦を開始した。これはガザにおける三つの軍事対決のうちでもっとも長期にわたる、もっとも激しい対決であった。エジプトの仲介のもとに8月26日に無期限の停戦が実現するまでには、何回かの試行が必要であった。この作戦によって人道状況はさらに悪化した。「国連とのガザ再建メカニズム」の設置にも関わらず、再建の努力はイスラエルとエジプトの封鎖と国際的支援の遅さによって、妨げられた。

2015年1月2日、事務総長は国際刑事裁判所ローマ規程も含め、アッバス大統領が署名した16件の加入文書を寄託した。

2016年7月、カルテットは二国家解決への脅威について報告し、占領を終わらせる交渉に復帰し、地位に関するすべての最終的問題を解決するために当事者がとるべき措置について勧告した。

12月、理事会は、決議2334(2016)を採択し、パレスチナ地域での入植はいかなる法的有効性を持たず、国際法のもとに重大な違反となり、二国家方式による解決の達成への大きな障害となりうると述べた。理事会はまた、テロ行為を含む民間人への暴力や挑発行為や破壊行為を阻止する措置を直ちにとるよう要請した。

レバノン

1975年4月から1990年10月にかけて、レバノンは内戦で荒廃していた。当初、南部レバノンは一方にパレスチナ・グループ、他方にイスラエル軍とその現地レバノン人支持部隊との間の戦闘の舞台となっていた。パレスチナ・ゲリラがイスラエルを襲撃したことに対抗してイスラエル軍が1978年に南部レバノンに侵攻したため、安全保障理事会は決議425と426を採択し、イスラエルの南部レバノン撤退を要請し、国連レバノン暫定軍(United Nations Interim Force in Lebanon: UNIFIL)」(https://unifil.unmissions.org/)を設立した。暫定軍の任務はイスラエル軍の撤退を確認し、国際の平和と安全を回復し、かつレバノンがこの地に権威を回復できるように支援することであった。1982年、南部レバノンとイスラエル・レバノン国境地帯で激しい銃撃戦が行われた。イスラエル軍はレバノン国内へ移動し、ついにはベイルートに達し、それを包囲した。イスラエルは1985年にレバノン国土のほとんどから撤退したが、南部レバノンの一角は支配を続け、イスラエル軍とその現地支持部隊が駐留した。レバノン・グループとイスラエル軍との戦闘が続いた。2000年5月、イスラエル軍は1978年安全保障理事会決議に従って撤退した。それにもかかわらず、南部レバノンからイスラエルの撤退を表示する「ブルー・ライン」に沿った情勢は不安定なものであった。

2005年2月14日、緊張がエスカレートし、ラフィク・ハリーリ元レバノン首相が暗殺された。11月、安全保障理事会は暗殺の容疑者を裁く特別法廷の設置を支持した。2005年4月、国連はレバノンからシリアの軍隊、軍事資産、情報活動の撤退を検証した。5月と6月、国連の援助の下で議会選挙が行われた。2005年から2006年かけて「ブルー・ライン」の重大な侵害が続いた。イスラエルとヒズボラとの間に断続的な衝突も見られた。2人のイスラエル兵が2006年7月にヒズボラの民兵に捕らえられ、イスラエルは大規模な空爆によってそれに応えた。ヒズボラはイスラエル北部に対するロケット弾攻撃でそれに応じた。安全保障理事会決議1701(2006)の規定に従って8月に34日間の戦闘が終わった。決議は敵対行為の即時停止とそれに続くレバノン部隊の展開を求めた。それに加え、UNIFILの平和維持プレゼンスを南部レバノンまで拡大し、増強(2006年の8月の2,000から最大1万5000人までの増員)することを求めた。同時に地域からのイスラエル軍の撤退も求めた。1978年以来のUNIFIL死亡者数は312人に達した。UNIFILが直面する重大な問題は、34日間戦争で残された100万個近い不発弾がもたらす生命への危険であった。

決議1701(2006)の採択以来、ブルーラインの侵害はイスラエル、レバノンの双方から報告された。2016年6月、事務総長は、当事者は決議順守を確認しているが、決議が求めるそれぞれの義務の履行については実施的な進展はない、と報告した。

レバノンとシリアは2008年10月に外交関係を樹立した。2009年6月に議会選挙が平和裡に行われ、新しく選出されたサアド・ハリーリ首相が11月に国民統一政府を樹立した。

レバノン特別調整官事務所(UNSCOL)(https://unscol.unmissions.org/)。2007年に設置され、レバノンにおける国連の活動の政治、調整の面において事務総長を代表する。2015年3月、特別調整官は、ヒズボラの武器の所有、シリアの紛争がレバノンに及ぼす影響、難民の危機等の問題について理事会に説明した。レバノンは120万人のシリアからの登録難民を抱えていた。同じく、2016年5月の懸念事は、レバノンの大統領は2年にわたって空席で、レバノンが直面する増大する安全、経済、社会、人道の課題に対処する能力に影響を与えていることであった。11月1日、理事会はミッシェル・アウンが大統領として選出されたことを歓迎し、新政府を早急に樹立し、レバノンの安定を促進するよう大統領および他の指導者に要請した。安全保障理事会は、UNIFILの期限を2017年8月30日まで延長した。

シリア

政府軍と反政府武装勢力との内戦は2011年3月に始まり、悲惨な6年にも及ぶ紛争が始まった。何十万という人々が殺害され、650万人もの人々が避難民となり、480万人もの人々が避難を求めて近隣諸国へ逃れた。それはまた地域、国際の分極化を招き、新たな過激主義者の脅威を生み出した。2012年4月、国連は「国連シリア監視団(UN Supervision Mission in Syria: UNSMIS)」を設立した。全当事者の武器による暴力の停止を監視し、国連・アラブ連盟共同特使のコフィー・アナン元国連事務総長が提案した紛争停止のための6項目計画の実施を支援する目的であった。戦闘が激化して全国土に広がったことから、UNSMISは2012年6月にその活動を停止せざるを得なくなった。UNSMISの任務遂行に必要だと安全保障理事会が求めていた治安状態が実現しなかったことから、ミッションの任務は2012年8月12日に終了した。

ジュネーブ・コミュニケは、事務総長とアナン共同特使が開催した主要な国際、地域の利害関係当事者による2012年6月の会議の最終文とも云えるもので、2012年8月、相互の同意に基づく十分な執行権を持った暫定統治機関の樹立も含め、6項目の計画の実施と政治的移行のためのガイダンスを提供するものである。安全保障理事会がコミュニケの承認と6項目計画の違反当事者に科す制裁についての決議採択に失敗したことに続き、共同特使は、任期が切れた後も仕事を続ける意思はないと述べた。同じ月、事務総長およびアラブ連盟(LAS)事務局長は、ラフダアール・ブラヒミ(アルジェリア)をシリア共同特使に任命したと発表した。

2013年8月21日にダマスカス郊外のゴウタ地区で化学兵器が使用された可能性があるとの報告を受けて、事務総長は9月の化学兵器調査の結果を理事会に報告し、使節団は、シリアで化学兵器が使用されたことを、明白かつ客観的に、確認したと述べた。9月27日、理事会は決議2118(2013)を採択し、国連と化学兵器禁止機関(OPCW)の合同ミッション(OPCW‒UN)に化学兵器を取り除く権限を与え、かつジュネーブ・コミュニケを承認した。

2014年1月と2月、ブラヒミ共同特別代表は、ジュネーブ・コミュニケの実施に関してジュネーブでシリア内当事者の交渉を開催した。当事者は、暴力とテロリズム、暫定政府機関、国家機関、和解の4項目のアジェンダに合意した。当事者は、しかし、これらの問題を交渉するための順番について合意に達することができず、ブラヒミ氏は交渉を停止しなければならなかった。彼は5月に辞任した。2014年7月、事務総長はスタファン・デ・ミストゥラ(イタリア/スウェーデン)をシリア特使に任命した。8月と9月、安全保障理事会は、とくに「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)や「アル=ヌスラ戦線」に特別の注意を払いながら、シリアにおけるテログループと闘う決議をいくつか採択した。2014年9月から2015年2月にかけて、特使は北部のアレッポ市の戦闘停止に力を入れた。

2014年9月30日、OPCW‒UN合同ミッションは、シリアが宣言した化学兵器の貯蔵を撤廃する作業を完了し、現在は残りの生産施設の破壊する作業が続いている、と発表した。11月、総会の第3委員会は、シリアに関する決議を採択し、国際刑事裁判所(ICC)が果たしうる役割に留意しつつ、説明責任を確保するために、適切な行動をとるよう安全保障理事会へ勧告した。

2015年5月、デミストゥラ特使はジュネーブ協議会の開始を発表した。8月、理事会は、兵器としての化学剤の使用にかかわった個人、事業体、グループ、政府を明らかにすることを目的とした決議1125(2015)を採択した。決議は、また、シリアにおける化学兵器の使用の責任を明らかにするよう共同UN‒OPCW調査機構に要請した。9月、事務総長はシリア情勢を国際刑事裁判所に付託するよう要請した。

シリア紛争をいかにして終わらせるかに関する国際シリア支援グループ(ISSG)の会合がアメリカとロシアによって召集され、17カ国外相、アラブ連盟(LAS)、欧州連合(EU)が参加し、2015年12月に、決議1154(2015)の採択に至った。理事会は、これまでのジュネーブ・コミュニケ支持を繰り返し、信用しうる、包摂的、無宗派統治の樹立に関する交渉、新憲法起草のプロセスと予定表、18か月以内に国連の監視のもとに自由かつ公正な選挙を実施することに関する交渉など、政治的移行のための予定表を設定した。いったん、移行への最初のステップがとられると全国的な停戦が実現するものと想定された。

2016年1月から4月にかけて、デ・ミストゥラ特使は、シリア政府と反対派の代表の参加のもとに、数回にわたる交渉を仲介した。2月、ISSGはロシアとアメリカが共同議長を務める停戦タスクフォースを国連のもとに設立した。2月26日、理事会は決議2268(2015)を採択し、敵対行為の停止に関するアメリカ・ロシア合意の条件を順守するようすべての交戦当事者に要請した。リストに載せられたISILやヌスラ戦線のテロ組織は停戦の当事者ではなく、これらの組織に対する作戦は、停戦レジームのもとに認められた。3月から4月にかけて暴力の減少が観察され、暴力は夏までに停止前のレベルに近づいた。2016年9月19日、国連・シリア赤新月社人道物資輸送部隊が攻撃を受け、およそ30人の死傷者が出た。事務総長は攻撃を調査する国連本部調査委員会を設置した。10月、特使は理事会で説明し、東アレッポが数か月以内に完全に破壊される危機にある、と強調した。停戦を成立させ、アレッポに対する人道的援助を行うという二つの決議案は、安全保障理事会によって可決されなかった。

数年におよぶ対立と包囲ののちに、「アレッポの戦い」は2016年12月22日に終わった。シリア政府は全市に対する完全な支配を取り戻した、と発表した。理事会は、前に反対派が支配していた地域からの避難を中立的立場で監視、観察するよう国連や関連機関に要請した。

12月29日、トルコとロシアが、シリア政府とシリアの武装反政府グループとの全国的停戦を発表した。安全保障理事会決議は停戦を支持し、人道援助機関がシリア国内でどこへでもアクセスできるようにするよう当事者に要請し、国連主導の政治プロセスの重要な一環として、また国連主催のもとに行われる交渉の再開への前進だとして歓迎した。

2017年4月4日、シリアの南、イドリブ県のカーン・シェイクン居住地への空爆で化学兵器が使用され、子どもを含め、多数のシリア市民が死傷したと主張する報道が行われた。事務総長は、いかなる場所であれ、化学兵器の使用は国際の平和と安全への脅威であり、かつ国際法の重大な違反であると安全保障理事会が以前に決めていたことを想起した。

イエメン

2011年にイエメンで暴動が発生して以来、国連は、事務総長の周旋を通して、イエメンが平和的解決を見いだされるようにイエメン国民を支援してきた。国連は政府と反政府派との交渉を支援し、その結果、2011年11月23日、リアドにおける湾岸協力理事会イニシアチブおよびその実施メカニズム(実施工程表)が署名されるまでになった。

事務総長は、事務総長イエメン担当特別顧問室(Office of the SpecialAdviser to the Secretary‒General on Yemen: OSESGY)(https://osasgy.unmissions.org/)を設置、イエメンのすべの政治グループとともに、イニシアチブと実施メカニズムの効果的実施を支援することにした。顧問室の設置以来、国連は、イエメン主導の移行プロセスを支援し、女性や若者、フティスや南部のヒラクなど、これまで社会的に無視されてきたグループも含め、包摂的な参加を促進してきた。国民対話会議は2014年1月に終わった。イエメンのすべての地域や政治団体の代表565人が参加した。成果文書は新しい連邦民主イエメンの基礎を確立するとともに、よい統治、法の支配と人権を支持した。

政治的な移行については重要な進展が見られたものの、フティス、その他の武装グループ、政府軍との間の対立は2014年半ばの軍事的衝突にまでエスカレートした。フティスと武装勢力は2014年9月とそれに続く期間にサナアとその他の地域を占拠した。

政治的行き詰まりを打開すべく国連主導の交渉が何回となく開かれたが効果はなく、軍事的対決は2015年早々にまで続いた。アブドラボ・マンサール・ハディ大統領の要請に基づいて、サウジアラビア主導の諸国連合が、3月26日、政府のコントロールの復権を確保するために軍事干渉を行った。その後も続く対決によって人道的緊急事態が発生した。アラビア半島のアルカイダやその他のテログループは混乱を利用して広い範囲にまでその支配力を拡大し、多くの地で政府や一般市民を目標に攻撃を行った。

2015年4月、安全保障理事会は、その周旋の役割を強化し、平和的な、包摂的、秩序ある、イエメン主導の移行を再開できるようにするよう事務総長に要請した。同じ月、事務総長は、イスマイル・ウルド・シェイク・アフメド(モーリタニア)を新しくイエメン担当事務総長特使に任命した。特使は、対立を終わらせ政治的移行プロセスを再開させるために数回に及ぶ協議を開催した。2015年6月と12月にはスイスで直接会談が行われ、2016年4月から8月まではクウェートで開催された。こうした努力にもかかわらず、サウジアラビアとイエメンの国境沿いを含め、全国的に各種当事者間で戦闘が続いた。同時に、アラビア半島のアルカイダやイスラム国によると主張された攻撃やこうしたグループに対する対反政府活動作戦が南部イエメンで続いた。

2016年4月25日、安全保障理事会は、和平会談の開始に続いて、4月10日と21日、暫定的な安全対策、撤退、重火器の引き渡し、国家機関の再開のための行程表を発展させるようイエメンの全当事者に要請した。また、湾岸協力理事会イニシアチブおよび実施メカニズム(行程表)と国民対話会議の結果に沿って政治的対話を再開させるよう要請した。理事会はまた、事務総長イエメン担当特使室(Office of the Special Envoy of the Secretary‒General for Yemen(OSE‒Yemen)(https://osesgy.unmissions.org/)が、当事者との次の段階をいかに支援するかを概説した計画を提出するよう事務総長に要請した。計画書は2016年5月に提出された。OSE‒Yemenの全体の目的は、イエメン和平プロセス、敵対行為の停止、平和的、イエメン主導の移行を再開できるようにする和平プロセスから生じる合意を実施することである。