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イラク出典「国連の基礎知識」

1990年のイラクのクウェート侵攻に対する国連の対応、2003年のサダム・フセイン政権の崩壊に続く情勢、こうしたことは国連が国際の平和と安全の回復を求める際に直面するさまざまな挑戦を物語っている。1990年8月、安全保障理事会は、クウェートからイラクの撤退を要求し、貿易と石油の禁輸を含む制裁をイラクに科した。1991年1月16日、多国籍軍はイラクに対して攻撃を開始した。多国籍軍の行動は、理事会から権限を与えられたものであったが、国連の指揮もしくは管理のもとにおかれたものではなかった。イラク軍がクウェートから撤退し、2月に戦争は終わった。

理事会は、イラクの大量破壊兵器は廃棄されなければならないと決め、イラクの武装解除を検証する国連特別委員会(United Nations Special Commission: UNSCOM)を設置した。委員会は事前の通告なしに検証する権限を与えられた。同時に、UNSCOMの支援の下に、核の分野で同様の検証作業を行うことを国際原子力機関(International Atomic Energy Agency: IAEA)に委託した。理事会はまた、国連補償委員会(United Nations Compensation Commission)を設置した。任務は、イラクの石油の販売から得られる収益の一部を利用して、イラクのクウェート侵攻が与えた損失や損害について、政府、国民、企業からの請求を処理し、補償することであった。

UNSCOMとIAEAは、核、化学、生物の兵器の分野において大量の禁止兵器の計画や能力を発見し、廃棄した。1998年、イラクは指定された兵器はもはや存在しないと宣言し、石油禁輸を解除するよう理事会に要請した。10月、イラクはUNSCOMとの協力を停止した。UNSCOMの最後のミッションは12月に行われた。同じ月、アメリカとイギリスはイラクを空爆した。

1999年12月、安全保障理事会は、UNSCOMに代わる新しい兵器監視機関として国連監視検証査察委員会(United Nations Monitoring, Verification and Inspection Commission: UNMOVIC)を設置した。2002年11月、理事会は決議1441を採択した。決議は、査察機構の能力を高めると同時に、理事会決議を順守する最後の機会をイラクに与えるものであった。11月27日、国連査察官はイラクに戻った。安全保障理事会は、UNMOVIC委員長とIAEA事務局長から繰り返し状況説明を受けた。交渉が続く中、安全保障理事会の枠組みの外で、スペイン、イギリス、アメリカの3カ国は、2003年3月17日を完全武装解除の期限としてイラクに突きつけた。大規模の軍事行動の可能性が高まったことから、事務総長は、3月17日付で国連の国際スタッフを撤退させ、すべての国連活動を停止することを命じた。アメリカ、イギリス主導による同盟軍の軍事行動は、3日後に始まった。サダム・フセイン政権の崩壊に続き、安全保障理事会は、5月、決議1483(2003)を採択し、イラク国民は政治的未来を自由に決定する権利を有すると強調した。また、国際的に承認された政府の樹立まで、同盟軍(暫定当局)の権限、責任、義務を認めることにした。国際制裁が解除され、イラクで活動を再開するための法的根拠が国連に与えられた。

2003年8月、安全保障理事会は国連イラク支援団(United Nations Assistance Mission for Iraq: UNAMI)を設立した。任務は人道復興援助を調整し、国際的に承認された、主権を有するイラク政府の樹立へ導く政治プロセスを支援することであった。2003年8月19日、バグダッドの国連現地本部がテロ攻撃の目標となり、22人が死に、150人以上が負傷した。死亡した人々のうちの15人が国連職員であった。その中には支援団団長のセルジオ・ビエイラ・デメロも含まれていた。事務総長はバグダッド勤務の国連の国際職員のほとんどを引き上げさせる一方で、イラク人を中心とした小規模のチームを残し、食糧の輸送、給水、保健サービスなど、基本的な人道援助を続けさせた。10月、安全保障理事会は、統一指揮下に置かれる多国籍軍の設立を承認した。多国籍軍はイラクの安全保障と安定維持に貢献し、かつUNAMI やイラク暫定統治機構の安全を確保するために必要なすべての措置をとる。11月、イラク統治評議会と連合暫定施政当局(Coalition Provisional Authority: CPA)は、2004年6月末までに主権を回復させることについて合意した。

暫定政府から主権国家への移行について国連援助の要請をイラク統治評議会と連合暫定施政当局(CPA)から受けて、事務総長は、2005年1月に信頼にたる選挙を実施するために何が必要かを評価する選挙支援チームを派遣した。事務総長はまた、これらの取り決めについてイラク当局と作業を進めるよう事務総長イラク特別顧問に要請した。特別顧問は2004年4月にイラクに到着した。5月、イラク統治評議会はイラクの首相にイヤド・アラウィを指名した。その翌月、安全保障理事会は新しい暫定政府の成立を支持した。2004年6月28日、主権が連合暫定施政当局から新しいイラク暫定政府へ正式に委譲された。

2004年6月に設置された独立選挙委員会は、その後の18カ月間に、治安状態が非常に深刻であったにもかかわらず、国連の支援の下に、2回の国政選挙とイラク憲法についての国民投票を実施した。2005年初め、何百万というイラク人が憲法を起草する暫定国民議会の選挙に参加した。2006年3月に最初の暫定国民議会が開かれた。議長は、イラクの新憲法の起草とコンセンサス構築に関して国連の支援を要請した。10月、イラクの憲法草案が全国的な国民投票によって採択された。12月にイラクの国民議会の選挙が行われた。2006年6月までに、新しい政府が成立した。国連は国民対話と和解を促進する支援をイラク国民と政府に約束した。しかし、政治的移行が成功したにもかかわらず、治安状況は悪化し、宗派間の闘争の波と報復行為が全国土に広がった。2007年後半現在で、およそ220万人のイラク人が国外へ逃げ出し、240万人近くの人々が国内避難民となった。国際連合は難民や国内避難民に関しては主導的役割を果たした。

それにもかかわらず、いくつかの明るい進展も見られた。2007年3月、「イラク国際コンパクト(International Compact with Iraq)」が発足した。イラクの平和開発5カ年計画に対して世界の指導者は何十億ドルもの支援を誓約した。6月、安全保障理事会は、イラクにおけるUNMOVICおよびIAEAのそれぞれの任務を正式に終了させた。2008年8月、国際連合とイラク政府は「国連イラク支援戦略2008-2010年」に署名した。この3年間、国連はイラクの復興、開発、人道的ニーズに対して支援することになった。

UNAMIの支援を受けて2010年3月に議会選挙が行われた。イラクの最高裁判所は6月に選挙結果は有効だと認め、安全保障理事会は、国民を代表する政府を樹立するために包括的な組閣プロセスに入るようすべての政治主体に要請した。12月、議会は全会一致でヌーリ・マリキの新政権を承認した。連立にはクルド、シーア派、スンニ派が参加した。2010年5月、イラクとUNAMIは、イラクの5カ年国家開発計画を支援する「国連開発支援枠組み2011-2014年」を発足させた。

アメリカとイラクとの間に結ばれた2008年の米軍の地位協定に従って、米軍は2011年12月18日にイラクから完全に撤退した。2012年7月、安全保障理事会は、UNAMIの任期を2013年7月31日まで延長した。