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イラク出典「国連の基礎知識」

1990年のイラクのクウェート侵攻に対する国連の対応、2003年のサダム・フセイン政権の崩壊に続く情勢、こうしたことは国連が国際の平和と安全の回復を求める際に直面するさまざまな挑戦を物語っている。安全保障理事会は、決議660(1990)および決議661(1990)によって、クウェート侵攻を直ちに非難し、イラクの撤退を要求し、貿易と石油の禁輸を含む制裁をイラクに科した。11月、安全保障理事会は、1991年1月15日をイラクが国連決議に従うべき期限と定めるとともに、同地域に国際の平和と安全を回復するために「必要なすべての手段」をとる権限を加盟国に与えた。1991年1月16日、多国籍軍はイラクに対して攻撃を開始した。多国籍軍の行動は、理事会から権限を与えられたものであったが、国連の指揮もしくは管理のもとにおかれたものではなかった。イラク軍がクウェートから撤退し、2月に戦争は終わった。4月8日の決議687(1991)によって、安全保障理事会は停戦の条件を設定した。

理事会は、イラクの大量破壊兵器は廃棄されなければならないと決め、イラクの武装解除を検証する国連特別委員会(United Nations Special Commission: UNSCOM)を設置した。委員会は事前の通告なしに検証する権限を与えられた。同時に、UNSCOMの支援の下に、核の分野で同様の検証作業を行うことを国際原子力機関(International Atomic Energy Agency: IAEA)に委託した。理事会はまた、イラク・クウェート間の国境線に沿って非武装化地帯を設けた。決議689(1991)によって、それを監視する国連イラク・クウェート監視団(United Nations IraqKuwait Observation Mission: UNIKOM)が設立された。さらに、理事会はイラク・クウェート国境画定委員会(IraqKuwait Boundary Demarcation Commission)が設置した。1994年、イラクは委員会が画定した国際国境線を受諾した。理事会はまた、国連補償委員会(United Nations Compensation Commission)を設置した。委員会は、イラクの石油の販売から得られる収益の一部から、イラクのクウェート侵攻によって受けた損失や損害について、政府、国民、企業からの請求を処理し、補償を行う。これまで、委員会は524億ドル相当の補償請求を受け、2010年末までにそのうちの307億ドルの補償が行われた。イラクは引き続き石油収益の5パーセントを「補償基金」へ払い続けており、委員会はその支払い処理を続けている。

理事会は、経済制裁がイラク国民に与えている厳しい人道的影響を懸念し、1995年12月、ある程度の救援を行う目的で、「石油と食糧の交換計画」を創設した。この計画は、決議986(1995)の下に設置されたもので、食糧や人道物資を購入するためにイラク政府が行う石油の販売を監視し、同時に国内における食糧の配給を管理した。それは、2003年11月に終了するまで、イラクの推定人口、2,700万人の60パーセントの人々にとっての唯一の生活維持のよりどころとなった。

その後浮上し始めた疑惑に応えて、事務総長が任命し、ポール・ボルカー(元米連邦準備制度理事会議長)が委員長を務めた独立調査委員会は、「石油と食糧の交換計画」のトップに不適切な管理があったとの結論を発表した。事務総長は直ちに彼の訴追からの免除を取り上げた。国連はまた、倫理規定、内部監査と説明責任、それに透明性、資産公開、「告発者」保護を強化するためにいくつかのマネジメントの改革を実施した。

1990年代の査察の過程で、UNSCOMとIAEAは、核兵器、化学兵器、生物兵器の分野でイラクの大量の禁止兵器や能力を発見し、廃棄した。1998年、イラクは指定された兵器はもはや存在しないと宣言し、石油禁輸を解除するよう理事会に求めた。UNSCOMは、イラクが決議687(1991)を完全に順守しているとの証拠を欠いていると宣言した。10月、イラクはUNSCOMとの協力を停止した。UNSCOMの最後のミッションは12月に行われた。同じ月、アメリカとイギリスはイラク空爆を行った。

1999年12月、決議1284によって、安全保障理事会は、UNSCOMに代わる新しい兵器監視機関として国連監視検証査察委員会(United Nations Monitoring, Verification and Inspection Commission: UNMOVIC)を設置し、イラクのUNMOVICとIAEAとの協力次第で経済制裁を解除するとの意向を表明した。2002年11月、理事会は決議1441を採択した。決議は、査察機構の能力を高めると同時に、理事会決議を順守する最後の機会をイラクに与えるものであった。11月27日、国連査察官はイラクに戻った。安全保障理事会は、UNMOVIC委員長とIAEA事務局長から繰り返し状況説明を受けたが、イラクの義務の履行をいかに確保すべきかについては意見が二分されたままであった。交渉が続く中、安全保障理事会の枠組みの外で、スペイン、イギリス、アメリカの3カ国は、2003年3月17日を完全武装解除の期限としてイラクに突きつけた。大規模の軍事行動の可能性が高まったことから、事務総長は、3月17日の国連国際スタッフの撤退とすべての国連活動の停止を命じた。米国、英国主導による同盟軍の軍事行動は、3日後に始まった。サダム・フセイン政権の崩壊に続き、安全保障理事会は、5月、決議1483(2003)を採択し、イラク国民は政治的未来を自由に決定する権利を有すると強調した。また、国際的に求められた政府の樹立まで、同盟軍(暫定当局)の権限、責任、義務を認めることにした。国際制裁が解除され、イラクで活動を再開するための法的根拠が国連に与えられた。

2003年8月、安全保障理事会は決議1500によって国連イラク支援団(United Nations Assistance Mission for Iraq: UNAMI)を設立した。その任務は人道復興援助を調整し、国際的に認められた、主権を有するイラク政府の樹立に導く政治プロセスを支援することであった。理事会は、そのための重要な一歩としてイラク統治評議会の設立を歓迎した。2003年8月19日、バグダッドの国連現地本部がテロ攻撃の目標になり、22人が死に、150人以上が負傷した。死亡した人のうちの15人が国連職員であった。その中には支援団団長のセルジオ・ビエイラ・デメロも含まれていた。この攻撃を受けて、事務総長はバグダッド勤務の国連国際要員のほとんどを引き上げさせる一方で、基本的な人道援助を提供するイラク人を中心とした小規模のチームを残し、食糧の輸送、給水、保健サービスなど、不可欠の人道援助を続けさせた。10月、安全保障理事会は、統一指揮下に置かれる多国籍軍の設立を承認した。多国籍軍はイラクの安全保障と安定維持に貢献し、かつUNAMIやイラク暫定統治機構の機関の安全を確保するために必要なすべての措置をとる権限が与えられた。11月、イラク統治評議会と連合暫定施政当局(Coalition Provisional Authority:CPA)は、2004年6月末までの主権回復に合意した。

イラク統治評議会と連合暫定施政当局(CPA)から主権への移行について国連援助の要請を受けて、事務総長は、2005年1月に信頼にたる選挙を実施するために何が必要かを評価する選挙支援チームを派遣した。事務総長はまた、これらの取り決めについてイラク当局と作業を進めるよう事務総長イラク特別顧問に要請した。特別顧問は2004年4月にイラクに到着した。5月、イラク統治評議会はイラクの首相にイヤド・アラウィを指名した。その翌月、安全保障理事会は全会一致で決議1546を採択し、新しい暫定政府の成立を支持した。6月28日、主権が連合暫定施政当局から新しいイラク暫定政府へ正式に委譲された。

2004年6月に設置された独立選挙委員会は、その後の18カ月間に、治安状態が非常に深刻であったにもかかわらず、国連の支援の下に、2回の国政選挙とイラク憲法についての国民投票を実施した。2005年初め、何百万というイラク人が憲法を起草する暫定国民議会の選挙に参加した。暫定国民議会の最初の会合が2006年3月に開かれた。5月31日、議長が、イラクの新憲法の起草とコンセンサス構築に関して国連の支援を要請した。10月、イラクの憲法草案が全国的な国民投票によって採択された。12月にイラクの国民議会の選挙が行われた。すべての派の何百万という人々が投票に参加し、何十万という監視員、機関、選挙運動員が参加した。2006年6月までに、新しい政府が成立した。国連は国民対話と和解を促進する支援をイラク国民と政府に約束した。しかし、政治的移行が成功したにもかかわらず、治安状況は悪化し、宗派間の闘争の波と報復行為が全国土に広がった。2007年後半現在で、およそ220万人のイラク人が国外へ逃げ出し、240万人近くの国内避難民が存在した。国際連合は難民や国内避難民に関しては主導的役割を果たした。

それにもかかわらず、いくつかの明るい進展も見られた。2007年3月、「イラク国際コンパクト(International Compact with Iraq)」が発足した。イラクの平和開発5カ年計画に対して世界の指導者は何十億ドルもの支援を誓約した。6月、安全保障理事会はUNMOVICおよびIAEAによる「包括的貢献」に感謝を表明し、イラクにおけるそれぞれの任務を正式に終了させた。8月、UNAMIの任務を拡大し、その期限を延長した。これによって、国民和解、地域の対話、人道支援、人権のような重要な領域で国連がその役割を高める道が開かれた。2008年8月、国際連合とイラク政府は「国連イラク支援戦略2008‒2010年」に署名した。これによってその後の3年間にイラクの復興、開発、人道的ニーズに対する国連の支援を行うことになった。

UNAMIの支援を受けて2010年3月に議会選挙が行われた。投票率は有権者のおよそ62パーセントであった。イラクの最高裁判所は6月に選挙結果は有効だとした。安全保障理事会は、包括的な組閣プロセスに入るようすべての政治主体に要請した。数カ月に及ぶ硬直状態が続いたが、11月、イラクの主要政党が組閣に合意した。そして12月、議会は全会一致でヌーリ・マリキの新政権を承認した。連立にはクルド、シーア派、スンニ派が参加した。

イラクとUNAMIは2010年5月、イラクの5日年の国家開発計画を支援する「国連開発支援枠組み2011‒2014年」を発足させた。8月、安全保障理事会はUNAMIの任期をさらに1年間延長した。