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カンボジア出典「国連の基礎知識」

国連仲介の1991年パリ協定が実施される前は、カンボジアは内戦が深く浸透し、どちらかといえば孤立した国家であった。1950年代にフランスの植民地から解放されて以来、カンボジアは、1960年代、1970年代のベトナム戦争の波及ばかりではなく、内戦による荒廃やポル・ポト派の集団殺害全体主義支配に苦しんだ。1975年から1979年までの「クメール・ルージュ」政権の下に、200万人近くの人々が殺害、病気もしくは飢餓のために死んでいった。多くがカンボジアの悪名高い「キリング・フィールド」で死んでいった。1993年、国連カンボジア暫定統治機構(United Nations Transitional Authority in Cambodia: UNTAC)の支援の下に、カンボジアは最初の民主的選挙を行った。それ以来、国連機関や計画は政府を助けて国民和解や開発を強化した。国連人権高等弁務官事務所と事務総長特別代表は、カンボジアが人権を促進し、擁護するのを支援した。これは法の支配と民主的な発展の柱石となるものであった。

2003年、国連とカンボジア政府との間に合意が成立した。それは、クメール・ルージュ時代に犯した犯罪を訴追する特別裁判所を設置し、運営することを国連が支援するというものであった。裁判所は2005年に設立し、翌年に裁判官と検察官が就任した。12カ月後、両者は内部規則について合意した。カンボジア裁判所内の特別法廷(Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia)は人道に対する罪に対して最初の起訴を発表した。何人かは暫定的拘留を求められた。2008年、クメール・ルージュの下に苦しんだカンボジア人が初めて弁護士を通じて裁判に参加した。このことは裁判所の被害者班によって「国際刑事法における歴史的な日」と表現された。イエン・サリ、イエン・シリト、キュー・サムファン、ヌオン・チア――民主カンプチアの4人の最高幹部――は2010年に起訴され、殺人、奴隷化、拷問、暴行など、人道に対する罪として審理が始まった。彼らはまた、チャム族や他のベトナムの民族の集団殺害、ジュネーブ条約の重大な侵害、殺人、拷問、宗教的迫害など、1956年のカンボジア刑法の違反などの容疑でも起訴されている。