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アフガニスタン出典「国連の基礎知識」

アフガニスタンに対する国連の最近の関与は、1995年9月にまで遡る。アフガニスタンの内戦で国土のほとんどを支配していたタリバン勢力が、首都カブールを制圧した。ブルハヌディン・ラバニ大統領は逃亡し、北部だけを支配していた「北部同盟」に参加した。その後長年にわたって、安全保障理事会は、アフガニスタン紛争がテロリズムと薬物取引の温床になるとの懸念を繰り返し表明した。1998年8月、ケニアのナイロビ、タンザニアのダルエスサラームのアメリカ大使館がテロ爆弾攻撃を受けて、何百人もが命を奪われた。理事会は、決議1193(1998)で、アフガニスタンに依然としてテロリストがいることに懸念を繰り返し述べ、そして12月、決議1214(1998)で、理事会は、国際テロリストとその組織に隠れ場所と訓練を提供することをやめるようタリバンに要求した。

理事会は、1999年10月、タリバンがこの要求に従わなかったとのべ、国連憲章の強制措置規定のもとに、幅広い制裁を実施することに決めた。理事会は、決議1267(1999)で、オサマ・ビン・ラディンは大使館爆撃の容疑者としてアメリカが起訴していることに留意し、法に照らして裁けるように彼を適切な機関へ引き渡すようタリバン勢力に要求した。タリバンは正当な政府として認められていなかった。同じく10月、理事会は、何千というアフガニスタン人以外の人々がタリバン側に立って戦闘に従事しているとの報道に苦悩を表明した。理事会は、一般の人々の強制的な移動、裁判によらない刑の執行、文民の権利侵害と一方的拘束、女性や少女に対する暴力、無差別の爆撃などについて、深い懸念を表明した。タリバンの宗教的不寛容も、広く非難された。2001年初め、タリバンはバーミヤン渓谷でおよそ1,300年前に砂岩岩窟に彫られた2体の仏像を爆破した。その中には世界で一番大きい仏像も含まれていた。同じ年の数カ月後、勅令によってヒンズー教の女性はイスラム教の女性と同様にベールをかぶり、イスラム教徒以外の人々はすべて身元を示すラベルをつけるよう要求された。

2001年9月11日、ビン・ラディンのアルカイダ組織のメンバーがアメリカで民間航空機4機をハイジャックし、2機がニューヨーク市の世界貿易センタービルに衝突し、1機は米首都の国防総省に突っ込み、もう1機は、乗客の阻止によってペンシルバニアの平地に墜落した。この同時多発テロによっておよそ3,000人の人々が犠牲となった。それに続いて、アメリカ政府はタリバンに最後通告を行い、ビン・ラディンを引き渡してアフガニスタンのテロリスト作戦を終わらせるか、大規模な軍事攻撃を受けるか、のいずれかを選択するよう迫った。タリバンは拒否した。10月、米英軍がアフガニスタンのタリバンの軍事目標やビン・ラディンの訓練キャンプにミサイル攻撃を行った。爆撃は2週間にわたって続けられ、その後、米国地上軍の展開となった。12月、米国爆撃の支援を受けて、アフガニスタン民兵が、パキスタンとの国境に近いアフガニスタン東部のトラボラのビン・ラディンとアルカイダの部隊の山頂拠点と言われる地点に攻撃を開始した。同じく9月11日に続く数週間、安全保障理事会は、タリバン政権を代えようとするアフガニスタン国民の努力を支持した。国連はまた、広く国民を代表する、包括的な政府の樹立を目指して、アフガニスタン当事者間の対話を進めた。国連がボンで開催したアフガニスタン政治指導者の会合は、12月初めに終わった。会議では恒久的政府機構が樹立するまで行う暫定的取り決めについて合意が見られた。第一のステップとして、アフガニスタン暫定政権(Afghan Interim Authority)が設立された。

2001年12月、安全保障理事会は、国際治安支援部隊(International Security Assistance Force: ISAF)の設立を承認した。暫定政権を助けて、カブールとその周辺地域の治安維持にあたる。その月の後半、国際的に認められたラバニ大統領の政権は、ハミド・カルザイ議長が率いる新たなアフガニスタン暫定政権へ権限を委譲し、最初のISAF部隊が展開された。

2002年1月、国際アフガニスタン復興支援会議が東京で開かれ、45億ドルを越す誓約が行われた。また、緊急ロヤ・ジルガを開いて暫定政権の国家元首を選出し、主要閣僚人事を承認するとの発表が行われた。ロヤ・ジルガとはパシュトゥー語で「国民大会議」を意味し、部族の長老が集まって問題の解決を図るための伝統的なフォーラムである。安全保障理事会は、タリバン政権の崩壊の結果、アフガニスタン国内に見られる好ましい変化を歓迎した。新しい現実を反映させて制裁を調整し、アルカイダとその支持者を制裁の対象にした。3月、理事会は、事務総長の勧告に従って、国連アフガニスタン支援ミッション(United Nations Assistance Mission in Afghanistan: UNAMA)を設立した。UNAMAは、人権や法の支配、ジェンダーの問題など、ボン合意が国連に付託する任務を果たす。団長は事務総長特別代表で、国民和解を促進し、暫定政権とその継承者と調整をはかりながらアフガニスタンの国連人道活動を管理する。UNAMAはそれ以来毎年その期限が更新されている。

数カ月後、緊急ロヤ・ジルガのメンバーを選出するプロセスが始まった。9日間の国民大会議は6月、ザヒル・シャー元アフガニスタン国王によって開かれた。元国王はハミド・カルザイを国家の指導者として指名した。ついでカルザイ氏がアフガニスタンの国家元首に選ばれ、その後2年間にわたって暫定政府を率いることになった。2004年1月、憲法制定ロヤ・ジルガは、アアフガニスタン憲法として採択された草案に合意した。その年の10月、800万人以上のアフガニスタン人が投票に行き、アフガニスタン史上初めて選挙による大統領としてハミド・カルザイを選出した。2005年9月、選挙運動中に一連の死者を招くような攻撃があったものの、アフガニスタン国民は国民議会と暫定評議会の選挙を行った。新しい議会は12月末に始まった。

薬物統制、復興、開発

1990年後半までに、アフガニスタンは世界の不正アヘンの80パーセント近くを供給する国、またヘロインの供給国として悪名が高かった。2007年までは、国連薬物犯罪事務所(UNODC)によると、アフガニスタンの30億ドル相当のアヘンの取引は、世界の不正生産の90パーセント以上を占めるものであった。栽培は主に南部に集中しており、タリバンもその薬物取引から利益を得ていた。しかし、2008年と2009年、けし栽培は36パーセント減少したと報告された。

2006年1月、ハイレベル・グループ会合がロンドンで開かれ、「アフガニスタン・コンパクト」を発足させた。これは、民主主義制度を確立するとともに治安の強化を図り、不正な薬物取引を取り締まり、経済を刺激し、法を執行し、アフガニスタン国民へ基礎サービスを提供し、その人権を擁護する5カ年計画である。翌月、安全保障理事会は、アフガニスタン政府と国際社会とのパートナーシップのための枠組みを提供するものとして「コンパクト」を全会一致で支持した。2008年6月、アフガニスタン支援の国際会議がアフガニスタン、フランス、国際連合を共同議長として開かれ、67の国と17の国際機関の代表が出席した。コンパクト実施の資金として200億ドルの誓約があった。それには2009年と2010年の選挙の準備に対する支援も含まれた。選挙ではカルザイ大統領が再選された。2010年9月の選挙の期間中、タリバンがある地域の村民が投票に行くのを脅かしたため投票率は低かった。緊張が高まる中で投票に行ったのは、わずか400万人のアフガニスタン人であった。

治安の欠如が依然として開発への主な障害である。国連開発計画(UNDP)によると、全人口の3分の1に当たる660万人のアフガニスタン人が十分な食糧を得られず、5歳以下の児童の死亡率と出産時に死亡する母親の割合は世界でもっとも高い国々の1つである。

治安

2007年9月、安全保障理事会は、ISAFの期限延長を決めた時、暴力やテロの増加に懸念を表明した。こうした状況について、事務総長は、治安を長期的に持続する鍵は、国家治安部隊、とくに国家警察の能力、自治、誠実を向上させることである、と述べた。これらの目標を達成する際の困難は、2008年、2009年を通して暴力の再発や拡大によって証明された。2009年10月にカブールの国連ゲストハウスに対するタリバンの攻撃によって、5人の外国人国連職員と3人のアフガニスタン人が殺された。2010年1月、国連事務総長、アフガニスタン大統領、イギリス首相がアフガニスタンに関する国際会議を共催した。会議は2011年までに治安問題の責任をアフガニスタン当局へ委譲する必要を強調した。7月、国連とアフガニスタン政府共催の会議は、アフガニスタンの州の管理を2014年までにISAFから国家治安部隊へ移行させることについて話し合った。会議ではまた、良い統治、司法システムの公平、人権、それに薬物の取引がもたらす長年の問題も取り上げられた。理事会はISAFの期限を2010年10月までさらに1年間延長した。