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西アフリカ出典「国連の基礎知識」

国連の機関間ミッションが2001年3月に西アフリカの11カ国を訪問した。ミッションは、西アフリカ諸国が直面する重大かつ相互に関連する政治的、経済的、社会的問題は、国連とそのパートナーが参加する統合された小地域戦略を通して解決すべきである、と勧告した。2001年11月、事務総長は、そうした統合的アプローチを促進するために西アフリカ事務総長特別代表事務所(Office of the Special Representative of the SecretaryGeneral for West Africa: UNOWA)(www.un.org/unowa)を設置することを決めた。事務所はセネガルのダカールにおかれ、2002年9月に活動を開始した。

UNOWAは世界で最初の国連の地域平和構築事務所である。事務所は、西アフリカ諸国においてあっせんの役割や特別の任務を果たし、小地域機関との連絡を行い、小地域に重要な意味を持つ事態の動きについて国連本部へ報告する。特別代表は、コートジボアールやリベリアなど、この地域の紛争の国際的解決に深くかかわってきた。UNOWAは、国境を超える課題、たとえば、傭兵、子供の兵士、小型武器の拡散、治安部門の改革、民主化、経済統合、若者の失業、多国籍企業などの課題に取り組んでいる。また、元戦闘員の武装解除、動員解除、社会復帰に関する事業の調和を図るために地域会議も開催した。

特別代表はまた、カメルーン・ナイジェリア混成委員会(Cameroon Nigeria Mixed Commission)の議長もかねる。これは、ナイジェリア、カメルーン両国大統領の要請を受けて事務総長が設置した委員会で、両国間の国境画定に関して国際司法裁判所が行った判決を実施する際に生じるさまざまな側面を取り上げることになっている。カメルーンとナイジェリアの間には、チャド湖からバカシ湾に伸びる全長1,600キロの陸上境界線に関する問題でしばらくの間緊張が高まっていた。海上境界線はギニア湾を通っていた。 陸海の豊かな石油資源に対する利権や現地住民の運命を左右する問題が含まれていた。ナイジェリアは1,000平方キロのバカシ湾に軍事要員を展開させたことから、1993年末には緊張は軍事対決にまで高まった。1994年、カメルーンは国境紛争を国際司法裁判所に訴えた。2002年10月10日、司法裁判所は判決を下し、混成委員会は12月に最初の会合を開いた。その後は2カ月ごとに、カメルーンのヤウンデとナイジェリアのアブジャで交互に開かれた。2006年、事務総長の集中的な調停を受けて、両国の大統領がバカシ半島に関する国境紛争を終わらせる協定に署名した。8月半ばまでにナイジェリアは部隊を完全に撤退させ、地域に関する権限を正式にカメルーンへ移譲した。2007年、当事者は、両国間の海上境界線を明示することについて合意した。これによって司法裁判所の判決が求めた4項が解決した。陸上の境界線については混成委員会の監視のもとに引き続き画定作業を進めなければならない。境界線の画定は2012年までには完了する予定である。

コートジボアール

1999年12月、ロベール・ゲイ将軍が率いる将兵グループが、コートジボアール政府を転覆させた。2000年10月に新たな大統領選挙が予定された。イボワール人民戦線(Front Populaire Ivorien: FPI)の党首ローラン・バグボに比べ自分の得票数が伸びないことを知ったゲイは、10月後半に一方的に勝利宣言を行った。共和主義者連合(Rassemblement Democratique des Republicains: RDR)党首のアラサン・ウアタラは、問題の多い新国籍法と資格条件によって選挙への立候補は認められなかった。アビジャンで何千人もの人々がゲイの行動に抗議してデモを行ったことから、バグボは自分が大統領だと宣言し、ゲイはアビジャンから逃亡した。首都ではバグボ支持者、ウアタラ支持者、治安部隊の間で暴力的な衝突が何回となく繰り返された。数百人に及ぶ人々が死んだ。

事務総長が後に設置した独立の調査委員会は、治安部隊がデモ隊を制圧し、殺害にかかわっていたとの結論を発表した。セイドゥ・ガディアラ元首相の議長の下に国民和解プロセスが始まり、2002年8月、バグボ大統領は新しい、広く国民を代表する政府を樹立した。しかし、こうした行動にもかかわらず、9月、何人かの軍人がクーデターを起こし、国の北部を占拠した。このクーデターによって国は事実上分割されてしまった。政府は南部だけを支配することになった。戦闘によって多くの避難民が発生した。

西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)は、政府と反政府勢力の1つが合意した停戦合意を監視する平和維持軍を設立した。2003年1月、政府と残りの反政府グループとが停戦に合意した。国民和解政府の樹立を決めた和平合意が達成された。バグボ大統領は3月に国民和解政府を樹立した。その2カ月後、軍と「新勢力(Forces Nouvelles)」――3つの反政府勢力で構成――は停戦合意に署名した。それを受けて、安全保障理事会は、国連コートジボアール・ミッション(United Nations Mission in Coted' Ivoire: MINUCI)を設立した。76人の軍事連絡将校と文民部門で構成され、合意の実施を支援することを任務とした。しかし、9月に入って、「新勢力」は、バグボが任命した防衛相と国内治安担当相を拒否し、政府から引き上げた。また、バグボ大統領は十分な権限を首相や国民和解政府に与えていないと抗議した。

こうした状況に応えて、安全保障理事会は2004年初めに国連コートジボアール活動(United Nations Operation in Coted' Ivoire: UNOCI)を設立し、MINUCIとECOWAS軍の権限をUNOCIに委譲するよう事務総長に要請した。フランス軍はUNOCIを支援するに当たっては、必要なあらゆる手段をとることが認められた。UNOCIの承認された最大兵力は、6,240人の軍事要員で、幅広い任務が求められた。

2005年4月、政府と反政府「新勢力」は両者間の前線から武器の撤去を開始した。この地帯はUNOCIの平和維持要員と国連承認のフランス軍の監視の下に置かれていた。6月、安全保障理事会はUNOCIを拡大し、同国の情勢悪化を防止する任務を与えた。年末に向けて、バグボ大統領は、アフリカ連合が提案し、理事会が支持した大きな力を持つ新暫定首相の任命に同意した。バグボ大統領とギョーム・ソロ「新勢力」事務局長は2007年3月に「ワガドゥグ合意」に署名した。合意は、新暫定政府の樹立、自由かつ公正は大統領選挙、「新勢力」と国軍との統合、民兵の解隊、政府支配の南部と反政府勢力支配の北部を分断するいわゆる信頼地帯をUNOCIが監視するグリーン・ラインに代えることなどを求めた。

ソロ氏は首相となり、国内の主要政党が来るべき総選挙のための善行規範を採択した。2010年11月、独立選挙委員会は、投票の54パーセントを獲得したアラサン・ウアタラの勝利を宣言した。しかし、憲法評議会議長は、結果は無効であるとして、ローラン・バグボの当選を宣言した。バグボとウアタラの両候補は共に勝利を主張し、それぞれが大統領宣誓式を実施した。国際連合、アフリカ連合、ECOWA、ヨーロッパ連合、それにほとんどの国家はウアタラ氏の大統領当選を認め、バグボ氏に辞任を要請した。バグボ氏はそれを拒否し、国連軍事要員の撤退を命じた。安全保障理事会はUNOCIの期限を2011年6月末まで延長し、同時に2,000人の追加平和維持要員を送ることに決めた。世界銀行は同国に対する貸付けを停止し、バグボ氏とその仲間たちには渡航を制限することが決まった。

リベリア

8年に及ぶ内戦の後の1997年、民主的に選ばれた政府がリベリアに樹立され、国連リベリア平和構築支援事務所(United Nations Peacebuilding Support Office in Liberia: UNOL)が設置された。しかし、1999年、政府軍と「リベリア和解民主連合(Liberians United for Reconciliation and Democracy: LURD)」との間に戦闘が始まった。2003年早々には西部地域に新たな武装勢力、「リベリア民主運動(Movement for Democracy in Liberia: MODEL)」が生まれた。5月までに、反政府勢力は国土の60パーセントを支配するまでになった。6月、ECOWAS主催の和平会談に出席するために当事者がガーナのアクラに集まった。その場で国連支援のシエラレオネ特別裁判所は、10年に及ぶ内戦中にシエラレオネで犯した戦争犯罪の罪でテイラー大統領を起訴したと発表した。テイラー大統領は和平プロセスから身を引いてもいいとのべた。2週間もたたないうちに政府、LURD、MODELは停戦合意に署名した。それは、包括的和平合意に達するために30日以内に対話を始めることと、テイラー大統領を除く移行政府の樹立を求めたものであった。そうした有望な発展にもかかわらず、戦闘は拡大し、ECOWASは先遣隊として1,000人以上の部隊を送ることに決めた。

国連と他の救援機関は、モンロビアの街路にあふれた何十万人もの絶望的な人々に食糧や医薬品を届けた。テイラー大統領は8月半ばに辞任し、副大統領のモーゼス・ブラーが後を引き継ぎ、暫定政府の首班となった。テイラー大統領の出国数日後、事務総長特別代表は、人道援助がそれぞれの支配下にあるすべての地域へ自由かつ妨害なくアクセスできるようにし、かつ国際援助要員の安全を保証するとの署名合意を関係当事者から受け取った。彼らはまた、包括的和平合意にも署名した。

2003年9月、安全保障理事会は、国連リベリア・ミッション(United Nations Mission in Liberia: UNMIL)を設立した。最大15,000人の軍事要員と1,000人以上の文民警察官で構成され、ECOWAS軍から任務を引き継ぎ、かつUNOLに取って代わる。その任務は、停戦を監視すること、すべての戦闘員のDDRR、すなわち武装解除、動員解除、社会復帰、帰還を支援すること、主要な政府施設や不可欠のインフラの安全を確保すること、国連スタッフ、施設、文民を保護すること、人道援助や人権を支援すること、などであった。UNMILはまた、移行政府がその組織を堅固にする戦略を進め、2005年10月までに自由かつ公正な選挙を実施できるように支援することもその任務とされた。予定通り、3,500人のECOWAS兵士は、帽子を国連のブルー・ヘルメットに変えた。2週間もしないうちに、当事者はモンロビアを「武器のない地帯」と宣言した。10月、ジュデ・ブライアント議長が率いるリベリア移行政府が発足した。10月17日、ブラー元大統領は大量の武器を国連平和維持要員に引き渡し、「もう戦いは望まない」と宣言した。

DDRRプロセスは12月に始まった。その後の12カ月間にわたって、10万人近くのリベリア人が武器や弾薬、携行式ロケット弾、その他の武器を引き渡した。2004年遅く、リベリアの戦闘民兵はモンロビアのUNMIL本部で行われた式典で正式に解隊された。2006年2月末までに、30万人以上の国内避難のリベリア人が自分たちの故郷の村へ帰った。

15年も続いた紛争の後、リベリア国民は国連の支援を受けて紛争後初めての選挙を行った。その後の二人の候補者同士の決選投票で、エレン・ジョンソン=サーリーフが大統領に選出された。59.4パーセントの得票であった。彼女は以前にUNDPフリカ局長のポストに就いていた。2006年に就任してまもなく、自国の傷を癒すため「真実・和解委員会」を設置した。

まだ大きな課題が残るものの、リベリアは平和な国家と復興に向かって着実に進んでいる。リベリアは2007年に国連平和構築基金から援助を受ける資格を得た。この基金は平和を確立し、安定化を図り、国の幅広い開発を触媒するプロジェクトに割り当てられる。これらのプロジェクトに関する作業は2009年に始まった。UNMILはこれらの目的を達成するために政府と国連パートナーとともに働き、2011年に予定される大統領選挙の準備をする。

ギニアビサウ

ギニアビサウでは紛争の期間が終わり、1999年2月、国民統一政府が発足した。3月、国連は国連ギニアビサウ平和構築支援事務所(United Nations Peacebuilding Support Office in GuineaBissau: UNOGBIS)を設置した。民主主義と法の支配を作り、促進し、自由かつ透明な選挙の組織を容易にするためであった。しかし、5月、和平合意は破られ、反政府部隊はジョアン・ベルナルド・ビエイラ大統領を追い出した。1999年11月と2000年1月の議会選挙、大統領選挙に続き、暫定政府に代わって、クンバ・ヤラ新大統領のもとに文民政府が発足した。

UNOGBISは移行期の新政府への支援を続けたが、国内の政情が不安定なため平和の確立と経済復興は進まなかった。その結果、援助国もその援助を制限するようになり、社会的な緊張が高まった。2002年11月、ヤラ大統領は国民議会を解散し、次期政府成立までの「暫定政府」を新たに発足させた。2003年5月に予定された議会選挙は、繰り返し延期された。ついに9月、彼は無血クーデターによって追放された。事務総長は安全保障理事会への報告で、民主的な選挙によって選ばれた大統領の解任は非難に値するにしても、解任は憲法上の規範が繰り返し侵害されたために行われた、と述べた。軍事クーデターは「耐えられない状況の結果」だったと述べ、紛争後の国の民主的に選ばれた政府が基本的な統治の原則から逸脱するのを防ぐ方法を勧告するよう国際社会に要請した。

2003年9月、政治的な暫定憲章が軍と政党と認められた24の政党のうちの23の政党によって署名された。それは、文民の暫定大統領と首相による民政の暫定政府、6カ月以内の議会選挙の実施、新しい議員の宣誓による就任後1年以内の大統領選挙の実施、を規定していた。10月初めまでに、すべての暫定機構が正常となり、エンリケ・ペレイラ・ローザが暫定大統領に宣誓就任した。

2004年3月の議会選挙は、国際監視要員によって自由、公正かつ透明な選挙であったと認められた。2005年6月と9月、2回の平和的な投票によってジョアン・ベルナルド・ニーノ・ビエイラが大統領に選ばれた。しかし党の方針についての政治的緊張が続き、国民和解と主要な政府機関の効果的な機能を困難にした。それでも、3つの主要政党が署名した国家政治安定合意によって、マルティノ・ダファ・カビ首相による政権が2007年4月に成立した。

2009年3月2日、ビエイラ大統領が兵士グループによって暗殺された。軍は継続の憲法秩序を尊重すると誓い、ライムンド・ペレイラ国民議会議長が暫定大統領に任命された。6月の大統領選挙の実施に続き、マラム・バカイ・サニャが新大統領として就任式を行った。同じく6月、国連は「国連ギニアビサウ統合平和構築事務所(United Nations Integrated Peacebuilding Office in GuineaBissau: UNIOGBIS)」を設立した。当初、2010年1月1日から12月31日までの1年間の予定であった。2010年4月、騒乱が再び発生し、カルロス・ゴメス・ジュニア首相は、陸軍参謀長とともに、兵士によって一時的に拘禁された。藩基文国連事務総長は、軍事的反乱を「安定の確立と主要改革の実施のプロセスに対する大きな後退」であるとして遺憾の意を表した。事務総長はまた、4月の事件と薬物取引とを結びつけた報道に懸念を表明した。

そうした危機的文脈の中で、UNIOGBISは、ギニアビサウとの多側面の活動を行う平和構築委員会を支援し、憲法秩序の維持と法の支配の尊重を維持する国内機関の能力を向上させ、効果的かつ効率的な法の執行と刑事司法制度の確立を支援し、治安部門改革戦略実施を発展、調整することを支援し、人権一般、とくに女性の権利を促進する。そうすることによって、UNIOGBISは、アフリカ連合、ポルトガル語国共同体(CPLP)、ECOWAS、欧州連合、その他のパートナーと協力する。

シエラレオネ

1991年、革命統一戦線(RUF)が、シエラレオネ政府の打倒を目指して戦いをしかけたが、1992年にシエラレオネ軍自体が政府を倒してしまった。1995年、事務総長は特使を任命した。事務総長特使は、OAUと西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)と共同歩調を取りながら、民政への復帰について交渉した。1996年に大統領選挙が行われ、軍は勝者であるアフマド・テジャン・カバーへ権限を委譲した。RUFはこの選挙に参加しなかった。事務総長特使は、政府とRUFとの間の1996年アビジャン和平合意の交渉に力を貸した。しかし、1997年に別の軍事クーデターがあり、軍隊はRUFに参加し、新政権樹立までの一時的な政府、「ジャンタ」を樹立した。カバー大統領は亡命した。安全保障理事会は石油と武器の禁輸を課し、同時にECOWAS監視団の軍隊ECOMOGを利用して、禁輸を実施する権限をECOWASに与えた。

1998年2月、ECOMOGは反政府軍とジュンタ軍から攻撃を受け、軍事作戦を実施した。それによってジャンタは崩壊した。カバー大統領は復権し、安全保障理事会は禁輸措置を解除した。6月、理事会は、治安と戦闘員の武装解除、治安部隊の再編成を監視する「国連シエラレオネ監視団(United Nations Observer Mission in Sierra Leone: UNOMSIL)」を設立した。UNOMSILは非武装であったがECOMOGの保護を受けて活動し、一般市民に対する残虐行為や人権侵害があったことが実証した。

しかし、間もなく反政府同盟は国土の半分以上を支配下に収め、1999年1月には、首都フリータウンのほとんどを制圧した。その月の後半、ECOMOG部隊がフリータウンを再び奪還し、政府が再度樹立された。この戦闘によって70万人の国内避難民と45万人の難民が生まれた。特別代表は、西アフリカ諸国との協議のもとに、反政府勢力との対話を求めて外交活動を開始した。これらの交渉の結果、戦争を終わらせ、国民統一の政府樹立を決めたロメ和平合意が7月に成立した。

安全保障理事会は10月に、UNOMSILをもっと規模の大きな平和維持活動、「国連シエラレオネ・ミッション(United Nations Mission in Sierra Leone: UNAMSIL)」に代えるとともに、合意の実施とおよそ4万5,000人の戦闘員の武装解除、動員解除、社会復帰を支援させることにした。2000年2月、ECOMOG部隊の撤退が発表されたことを受けて、理事会はUNAMSILの兵力を1万1,000人に増強した。しかし、4月になってRUFが国連部隊を攻撃し、その結果4人の国連平和維持要員が殺され、500人近くの国連要員がRUFの人質となった。5月、英国部隊は、シエラレオネ政府との2国間協定に基づいて駐留していたが、首都と空港を確保し、RUF指導者のフォデー・サンコウの逮捕に手を貸した。その月の終わりまでに国連の人質のおよそ半数が釈放された。安全保障理事会は、平和の回復を支援する目的でUNAMSILの兵力を1万3,000人に増強した。7月、UNAMSILは残りの人質を救出した。8月、安全保障理事会は、戦争犯罪の容疑者を裁く特別裁判所の設置についての作業を開始した。

UNAMSILは2001年11月には全国的な展開を完了し、2002年1月には武装解除も完了した。2002年5月の大統領選挙と議会選挙に続いて、UNAMSILは、政府が平和を確実なものにすることができるように、政府の権限を全国土に拡大し、元戦闘員の社会復帰を容易にし、国内の避難民や帰還難民が定住できるように支援した。国内避難民の再定住は2002年12月に終了し、およそ28万人のシエラレオネ難民の帰還は2004年7月に完了した。真実和解委員会とシエラレオネ特別裁判所は、2002年半ばに活動を開始した。

UNAMSILが2005年12月に撤退したとき、国内には安定しているとの認識が強く、また基本サービスも改善されていた。2006年1月、UNAMSILに代わって国連シエラレオネ統合事務所(UN Integrated Office in Sierra Leone: UNIOSIL)が設立された。これは平和強化プロセスを支援するために設立された最初の統合事務所であった。(www.uniosil.orgを参照)

2006年4月、チャールズ・ティラー元リベリア大統領が戦争犯罪、人道に対する罪、その他の違反行為など、訴因10項目について答弁するために特別裁判所に出廷した。6月、安全保障理事会は、テイラーをハーグで裁判するとの特別裁判所の要請を承認した。これは、彼のプレゼンスが「リベリアとシエラレオネの平和への脅威」となるとの理由であった。公判は2007年6月に始まったが、口頭弁論が終わったのは2011年3月のことであった。同じく2007年6月、国連支援の特別裁判所は最初の判決を行った。3人の元反政府リーダーは複数の戦争犯罪および人道に対する罪――テロ行為、殺人、暴行、奴隷化、子供の武装グループへの徴集などで有罪となった。45年から50年の禁固刑であった。

シエラレオネの開発は、新しく設立された平和構築委員会がその最初の活動報告で指摘しているように、ブルンジとともに大躍進を遂げた。2007年3月1日、同委員会の勧告に基づいて、潘基文事務総長は国連平和構築基金か3,500万ドルをシエラレオネに提供した。同基金は、紛争から立ち直った国が平和を構築し、流血の再発を回避できるように支援する目的で前年の10月に設立されたものである。

2007年7月、シエラレオネの大統領選挙と議会選挙の選挙運動が始まった。UNIOSILLはその参加として、投票や集計手続きに関する49人の地区担当官を対象に研修を実施した。そこで学んだことは3万7,000人の投票担当官に伝えられる。8月11日、選挙が行われ、投票率も高かった。大統領選挙決選投票で、全人民会議党のアーネスト・バイ・コロマが54.6パーセントの得票で大統領に選出され、11月15日、大統領に就任した。それ以来、コロマ大統領は国連の支援とともに国の復興に取り組んでいる。

2008年8月、安全保障理事会は、国連シエラレオネ統合平和構築事務所(United Nations Integrated Peacebuilding Office in Sierra Leone: UNIPSIL)を設置した。これはUNIOSILに取って代わるものである。およそ70人のスタッフとともに、UNIPSILは平和の促進について助言し、国の警察や治安部隊に支援と訓練を提供する。また、良い統治の強化と人権促進のために民主制度の構築をも支援する。