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太湖地域出典「国連の基礎知識」

ルワンダ

ルワンダに対する国連の関与は1993年に始まった。その年、ルワンダとウガンダは、両国の共通の国境地帯に国連軍事監視団を派遣し、ルワンダ愛国戦線(RPF)がその地域を軍事目的に利用するのを防ぐよう国連に要請した。それを受けて、安全保障理事会は「国連ウガンダ・ルワンダ監視団(UNOMUR)を設立した。

1990年、主にフツ族政府とツチ族主導のRPFとの間に戦闘が発生した。RPFはウガンダから戦闘をしかけていた。1993年、暫定政府の樹立と選挙の実施を規定した和平合意が結ばれた。ルワンダとRPFの要請を受けて、安全保障理事会は1993年に「国連ルワンダ支援団(UNAMIR)」を設立し、当事者の合意実施を助けることにした。しかし、1994年4月初め、ルワンダ、ブルンジ両国大統領が乗った飛行機がロケット弾によって撃墜され、2人とも死亡した。これが引き金となって、数週間に及ぶ集中的かつ組織的な虐殺が行われた。ツチ族と穏健派のフツ族を対象とした殺害が、フツ族支配の軍隊や民兵によって行われた。UNAMIRは停戦の取り決めを試みたが失敗し、いくつかの国は一方的にその部隊を撤退させた。安全保障理事会はUNAMIRの兵力を2,548人から270人に削減した。しかし、こうした状況の中にあってもUNAMIRは何千というルワンダ人に庇護を与えることができた。5月、理事会はルワンダに対する武器禁輸を決定し、UNAMIRの兵力を5,500人に増強した。しかし、加盟国が部隊を提供できるようになるまでには6カ月近くもかかった。7月、RPF軍はルワンダを支配下におさめた。内戦は終わり、国民を広く代表する政府が樹立された。

790万の人口のうち、およそ80万人が殺され、約200万人が他の国へ逃れた。また、およそ200万人の人々が国内で避難民となった。国連の人道支援へのアピールに応えて7億6,200万ドルが集まった。

内戦の終了に伴って、ルワンダのフツ族の多くは、現在コンゴ民主共和国(DRC)として知られる東ザイールに避難した。その中には集団殺害に関与した分子も含まれていた。これらの武装グループは隣接のルワンダに対して攻撃を開始した。その結果、ウガンダとルワンダはともにコンゴ民主共和国に干渉し、1994年の集団殺害に責任がある元フツ族民兵に与えられている聖域に安全保障上の懸念を表明した。国連、OAU,地域の集中的な外交活動によって、1999年ルサカ停戦合意が署名された。それを受けて安全保障理事会は国連コンゴ民主共和国ミッション(MONUC)を設立した。

2002年7月、ルワンダとコンゴ民主共和国はコンゴ民主共和国からのルワンダ部隊の撤退とフツ族民兵の解隊に合意した。これは太湖地域の平和と安全へ向かっての大きな転機となった。2003年、MONUCは自発的におよそ900人のルワンダ戦闘員とその家族を帰還させた。同年、住民投票によって新憲法が採択された。また、1962年の独立以来初の複数政党による議会選挙が行われた。ルワンダの集団殺害10周年を記念して、総会は2004年4月7日を「1994年のルワンダにおけるジェノサイドを考える国際デー」と指定すると宣言した。

ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)は安全保障理事会によって設立され、集団殺害と戦争犯罪の容疑者を訴追する。2010年末までに、裁判所は92人の個人を起訴、52人の被告に対して42件の判決を言い渡した。22人の被収容者が公判中で、2人が未決囚である。また、10人が控訴中で、11人の容疑者は依然として未拘束である。ジャン・カンバンダ元大統領は有罪として終身刑の判決を受けた。

ブルンジ

国連は、ブルンジの危機の解決に努めてきた。ブルンジでは長年にわたって内部対立が続いていた。1993年にクーデターが発生し、民主的に選ばれた最初の大統領(フツ族出身)をはじめ、6人の閣僚が殺害された。これが部族間闘争にまで発展し、その後の3年間、大勢の人が死んだ。

1996年、多数派のフツ族と少数派のツチ族との合意によって樹立された政府と大統領が、ツチ族主導のクーデターによって退陣させられた。しかし、主にツチ族を主体とした軍隊とフツ反政府軍との間の戦闘が激化し、およそ50万の人々が強制的に「再編成キャンプ」へ移動させられ、30万人がタンザニアへと脱出した。1998年にフツ族とツチ族との政治的パートナーシップに基づく新しい暫定憲法が作られ、2001年11月に暫定政府と議会が発足した。2003年初めまでに、3つの主要勢力グループとの停戦合意が署名され、アフリカ連合はアフリカ・ブルンジ・ミッション(AMIB)の展開を承認した。3,500人の部隊が編成された。4月末までに、暫定期間の上半期の終わりに、フツ族大統領とツチ族副大統領は就任を宣誓した。しかし、ブルンジの首都ブジュンブラでは破壊的な攻撃が続いた。ブルンジの17の州のうちの16州で散発的な戦闘や略奪、武力による山賊行為が続き、国連は幹部以外のスタッフをブジュンブラから撤退させなければならなかった。

南アフリカや地域の他の国々のたゆまぬ努力によって2003年11月に停戦合意が生まれた。25万人から35万人もの人々を死に追いやった10年に及ぶ内戦からついに平和が生まれるであろうとの真の希望があった。AMIBはこの実現に大きな役割を果たした。しかし、ミッションは資金と後方支援の欠如に苦しめられた。アフリカ連合は、AMIBに代わって国連がその任に就くよう要請した。2004年5月、国連憲章の強制規定のもとに、安全保障理事会は、国連ブルンジ活動(ONUB)の展開を承認した。ONUBは当初、駐留中のAMIB部隊で構成されることにした。2,000人以上のAMIB部隊が国連軍として「帽子をかぶり直した」。2005年、内戦後の憲法に関する住民投票が成功裏に行われ、それに続いて6月には自治体選挙、そして8月には内戦終結後初の大統領選挙が行われた。9月には停戦合意となり、国連がその実施を支援した。

2007年1月1日、ONUBに代わって小規模の「国連ブルンジ統合事務所(BINUB)」が設置された。平和の強化プロセスを支援し、また、国家機関の強化、警察官の養成、国家防衛隊の職業化、動員解除の終了と元戦闘員の社会復帰、人権の擁護、司法および法律部門の改革、経済成長の促進と貧困削減の分野で政府を支援することを目的とした。2011年1月、国連ブルンジ事務所(BNUB)がBINUBに取って代わった。

コンゴ民主共和国

1994年のルワンダでの集団殺害と新政府の樹立に続いて、集団殺害に加わった分子も含め、およそ120万のフツ族系ルワンダ人難民が現在のコンゴ民主共和国(元ザイール)のキブ州へ逃げ込んだ。1996年、この地域で反乱が始まった。ローラン・デジレ・カビラを指導者とする軍隊が、モブツ・セセ・セコ大統領の軍隊に対して行った反乱であった。ルワンダとウガンダの援助を受けたカビラ軍は1997年に首都キンシャサを制圧し、国名をコンゴ民主共和国(DRC)と改称した。1998年、カビラ政府に対する反乱がキブで始まった。反政府運動の「コンゴ民主主義運動(Congolese Rally for Democracy: RCD)」によるものであった。反乱軍は数週間のうちに国土の大部分を占拠した。アンゴラ、チャド、ナミビア、ジンバブエはカビラ大統領に軍事支援を約束したが、反政府勢力は東部地域の占拠を維持した。ルワンダとウガンダは反政府運動を支援した。安全保障理事会は停戦と外国軍の撤退を求めた。1999年初め、DRCはアンゴラ、ナミビア、ルワンダ、ウガンダ、ジンバブエとともに、ルサカ停戦合意に署名した。同合意はコンゴ国民間の対話の開催も規定していた。RCDとコンゴ解放運動(Mouvement de Liberationdu Congo)も8月にその合意に署名した。理事会は、合意の実施を助ける国連コンゴ民主共和国ミッション(United Nations Mission in theDemocratic Republic of the Congo: MONUC)を設立した。

2001年1月、カビラ大統領が暗殺され、息子のジョセフ・カビラが新大統領に就任した。4月、安全保障理事会が設置した専門家パネルは、DRCの紛争は主に同国の豊かな鉱物資源を外国軍が手に入れようとしたことによる、と報告した。とくに5つの主要鉱物――ダイヤモンド、銅、コバルト、金およびコルタン(携帯電話などに利用される電子チップの材料)――は、これらの軍隊が開発しており、同時に多くの企業がこれらの資源と武器の交換を行っている。5月、ジョセフ・カビラ大統領は、国内の政党に対する禁止を解除すると発表し、10月には長く待たれていたコンゴ人同士の対話がエチオピアのアジスアベバで始まった。

2002年7月、コンゴ民主共和国からのルワンダ兵士の撤退に関する合意が、コンゴ民主共和国とルワンダの両国政府によって署名された。9月、同様の合意がコンゴ民主共和国とウガンダとの間にも結ばれた。しかし、10月までには、コンゴ民主共和国の東部で戦闘が再発し、全国土の安定が脅かされた。同年末までに、紛争当事者は、国連と南アフリカの調停のもとに、暫定政府を樹立させることについて合意した。安全保障理事会は、MONUCを拡大して軍事要員を8,700人に増やした。同時にその展開を東部にまで拡大した。しかし、間もなく南キブ地域で戦闘が再発し、大量の難民が発生した。ようやく2003年5月になって、当事者がイツリ地域の停戦合意に署名した。MONUCはイツル州の州都であるブニアの巡回を続け、民族間の緊張を緩和するように努め、現地の人々の恐怖をやわらげたることに努めた。民族間の残忍な権力闘争は、組織的なレイプや殺害を特徴としていた。

停戦を受けて、安全保障理事会は、事態の安定化を図る目的で暫定緊急多国籍軍(Interim Emergency Multinational Force: IEMF)をブニアに展開することを承認した。同年6月、政府と主要な反政府勢力は、軍事と治安の取り決めに関する合意に署名した。7月17日、カビラ大統領が率いる権力分担の国民統一暫定政府がキンシャサに樹立された。理事会はMONUCの兵力を1万800人まで増強した。理事会は、国連憲章第7章のもとに、イツリ地域と南北両キブ州で任務を果たすためには武力の使用も可能とする権限をミッションに与えた。9月5日、IEMFはその治安に関する責任をMONUCへ引き渡した。

46年の歴史の中で初めての自由かつ公平な選挙が2006年7月に行われた。500議席の国民議会の選出が行われた。10月に行われた大統領決選投票に続き、ジョセフ・カビラの当選が発表された。選挙の全プロセスは、国連がこれまで支援してきた選挙の中で一番複雑な選挙の1つであった。

国連はMONUCを通して積極的に関与して、国家軍と反政府勢力による北キブ州での対立を解決することを目指した。2007年、国連はDRCとルワンダ両国政府間の合意を可能にした。それは、元フツ族民兵(インテラハムウェ)やルワンダ軍(元FAR)など、東DRCにとどまる不法な国内および海外からの武装グループが地域にもたらす脅威を取り除くものであった。

2008年10月、RCD軍は、ゴマ市への途中にあって戦略的に好位置にある主要な軍事キャンプを占拠した。攻撃のための基地として利用するためであった。RCDの圧力のもとに政府軍が撤退したため、ゴマの国連施設周辺で暴動が起こった。反政府勢力の市内への侵攻を防ぐために国連の装甲車が利用された。平和維持要員はゴマから北キブへ展開された。国連は市民に対するこれ以上の危害を防ぐために行動をとり、11月に、安全保障理事会は「人道的状況の悪化、とくに一般市民を目標にした攻撃、性的暴行、子供兵士の徴兵、即決の処刑に強い懸念」を表明し、全会一致でさらに3,085人の追加平和維持要員を現地へ派遣することを決めた。

2009年後半、MONUCはスドウバンギ州へ平和維持要員を派遣した。これは、新しい対立が生まれたことを受けて、一般市民を保護するためであった。2010年7月、国内で達した新たな段階を反映して、MONUCは「国連コンゴ民主共和国安定化ミッション(United Nations OrganizationStabilization Mission in the Democratic Republic of the Congo: MONUSCO)」となった。理事会は、MONUSCOは、文民・司法部門に加え、最大19,815人の軍事要員、760人の軍事顧問、391人の警察要員、1,050人編成の警察班から構成されることを決めた。MONUSCOの将来の構成は、北・南キブ州やオリエンターレ州における軍事作戦の終了、市民の保護に関する政府能力の改善、国内を通して国家権限の強化など、将来の状況に基づいて行うことにした。

中央アフリカ共和国

中央アフリカの紛争は、軍隊が1990年代半ばに一連の反乱を起こしたことによって発生した。国連は、1998年、「国連中央アフリカ共和国ミッション(United Nations Mission for the CentralAfrican Republic: MINURCA)」を設立した。首都バンギの治安を改善する任務を持った平和維持活動である。その後、国連は1999年の大統領選挙支援も行った。2000年2月、MINURCAを引き継ぐものとして、「国連中央アフリカ共和国平和構築事務所(United Nations Peacebuilding Office inthe Central African Republic: BONUCA)」が設置された。

2001年5月、クーデターが試みられたが、鎮圧された。2年後の2003年3月、反政府軍リーダーが選挙によって選ばれた大統領を追い出し、権力の座に就いた。安全保障理事会はクーデターを非難し、バンギ当局は早期選挙のための日程を含め、国民対話の計画を作成しなければならない、と強調した。国民対話のプロセスを通して議会選挙と大統領選挙がそれぞれ2005年3月と5月に行われた。最終的な決選投票でフランソワ・ボジゼ将軍が投票の64.6パーセントを獲得して大統領に選ばれた。新しい国民議会は最初の通常会期を2006年半ばに開催した。

2008年、政府と3つの主要な反政府グループとの間で「グローバル和平合意」の署名が行われた。国連ミッションはそれを奨励することで重要な役割を果たした。また2008年12月、政府、反政府グループのリーダー、亡命中の反政府政治家、その他の利害関係者による「包括的政治対話」の開催にも力を貸した。政治対話は、国民統一政府の樹立、市議会・議会・大統領選挙の実施、真実和解委員会の設立、元戦闘員の武装解除、動員解除および社会復帰計画の実施を求めた。

国連中央アフリカ・チャド・ミッション(United Nations Mission in CentralAfrican Republic and Chad: MINURCAT)は、2007年9月に安全保障理事会によって設立された。その目的は一般市民を保護し、かつ人権、法の支配、地域の平和を促進することであった。2009年1月、理事会は、任務を終了しつつあった欧州連合部隊(EUFOR)を引き継ぐためにMINURCATの軍事部門の展開を承認した。(MINURCATの任務は2010年12月31日に終了した。)同じく2009年、国連中央アフリカ統合平和構築事務所(United Nations Integrated Peace Building Office in the Central African Republic: BINUCA)がBONUCAの任務を引き継いだ。新しい平和構築事務所は、同国の北東地域で再発する紛争や暴力など、持続する課題を受けて各種の合意やコミットメントの実施を促進することに力を入れることになった。

太湖地域に関する国際会議

太湖周辺諸国を巻き込んだ紛争の重要な地域的側面に考慮し、安全保障理事会は、太湖地域に関する国際会議の開催を呼びかけた。1994年にルワンダで集団殺害が行われたことも考慮された。1990年代の終わりに太湖地域事務総長特別代表事務所が設置された。同事務所は対話の促進に重要な役割を果たし、また、アフリカ連合とともに、国際会議の合同事務局となった。第1回太湖地域に関する国際会議は2004年11月にタンザニアのダルエスサラームで開催された。

2006年12月に再び開かれ、会議に参加した11カ国――アンゴラ、ブルンジ、中央アフリカ共和国、コンゴ、コンゴ民主共和国、ケニア、ルワンダ、スーダン、タンザニア、ウガンダ、ザンビア――の首脳は、「太湖地域における安全、安定および開発に関する協定」に署名した。これによって4年間にわたって続けられた外交プロセスが終了した。協定は、太湖地域が直面する重要な問題を集団で明らかにし、その対応策を策定するための枠組みを規定したものである。

DRC政府と地域の反政府勢力との間に大規模な戦闘が再開された。国連事務総長は2008年にオルセグン・オバサンジョ元ナイジェリア大統領を太湖地域特使に任命した。その任務は、地域の政府、とくにコンゴ民主共和国とルワンダの両政府との会談を通してDRC東部の危機を終わらせるように支援することであった。国連政治局(DPA)はナイロビに事務所を設け、特使とその「共同ファシリテーター」を支援することにした。共同ファシリテーターはベンジャミン・ムカパ元タンザニア大統領で、太湖地域、アフリカ連合、国連に代わって紛争解決のためにあっせんを行うよう域内諸国の首脳に求められた。共同ファシリテーターはコンゴ民主共和国における国連平和維持ミッション、MONUSCOおよび神の抵抗軍(Lord's Resistance Army)影響地域の特使、ジョアキム・シサノ元モザンビーク大統領と緊密に協力した。

共同ファシリテーターの主導のもとに、コンゴ民主共和国政府、人民防衛国民会議(National Congress for the Defence of the People: CNDP)、および北・南キブ州の政府やその他の武装グループの間に和平合意が署名された。和平合意はCNDPやその他の武装グループを政党に変えること、政治犯の釈放、国民和解の促進、常設地方調停委員会の設立、難民や国内避難民の帰還、そして公共サービスや治安機関の改革などを規定している。合意の規定のすべてではないにしてもその多くは実施された。合意の実施は、国連政治局や共同ファシリテーター、MONUSCOとの緊密な協力のもとに、国民フォローアップ委員会(National FollowupCommittee)が監視した。

2010年3月、事務総長あての最終報告で特使が行った勧告に基づいて、ナイロビの特使事務所が2010年6月に閉鎖された。MONUSCOと国連政治局は引き続き合意の実施を監視している。