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中央・東アフリカ出典「国連の基礎知識」

スーダンと南スーダン

スーダンは1956年1月1日の独立以来、何年にもわたって続く内戦に耐えてきた。1983年に始まった段階では、政府と南部の主要な反政府運動である「スーダン人民解放運動・軍(Sudan People's Liberation Movement/Army: SPLM/A)」が資源や権力、国家における宗教の役割、自決の問題について戦っていた。国連が支援した「政府間開発機構(IGAD)」が2002年に始めたイニシアチブによって、ケニアのマチャコスにおいて「マチャコス議定書」の署名が行われた。2004年、「アフリカ連合スーダン・ミッション(African Union Mission in the Sudan: AMIS)」が監視団として展開され、和平活動のための準備をする国連スーダン先遣隊(United Nations Advance Mission in the Sudan: UNAMIS)が設立された。2005年1月に南北包括和平合意(Comprehensive Peace Agreement: CPA)が署名されるまでに、200万人以上の人々が死に、400万の人々が避難を余儀なくされた。およそ60万の人々が国外へ逃亡した。CPAは治安の取り決め、首都での権力の配分、南部におけるある程度の自治、そして石油資源も含め、経済資源のより公平な分配について決めていた。また、その規定の下に、暫定機構が、国際監視団の監視を受けながら、6年半の統治を行い、ついで、国連監視による住民投票を行って、南部スーダンの人々がスーダンとの統合もしくは分離を決めることになっていた。

2005年3月、安全保障理事会は、国連スーダン・ミッション(United Nations Mission in the Sudan: UNMIS)を設立した。その任務は、CPAの実施を支援し、人道的援助や難民、国内避難民の任意の帰還を助け、かつその調整を図り、地雷除去について当事者を支援することであった。また、人権の擁護と促進を行い、とくに弱者に特別の注意を払いながら、文民を保護することも求められた。2005年9月、国民統一政府が樹立された。当事者はCPAの規定を尊重しているものの、協力の精神、包括性、透明性は期待されたほど高くはなかった。ダルフール危機の継続もその実施に悪い影響を与えていた。

2011年1月、南スーダンで、スーダンの一部として残るか、それとも独立するかについて住民投票が行われた。南スーダンの一部となるかについてアブエイ地区でも同時に行われる予定であった住民投票は、境界線の画定や居住の問題のために延期された。南スーダン住民投票委員会(SSRC)は住民投票のプロセスを組織し、国連は住民投票の準備について技術的支援や後方支援を行った。アフリカ連合と政府間開発機構(IGAD)の監視団は住民投票の実施についてSSRCを称賛し、プロセスは自由公正であった、と宣言した。他方、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、何万人もの南スーダン人が故郷へ帰るのを支援したと報告した。

ダルフール

民族的、経済的、政治的緊張がわずかな資源に対する争いと結びつき、ダルフールでの暴力にさらに油を注ぐことになった。2003年、政府は、スーダン解放運動・軍(Sudan Liberation Movement/Army: SLA/A)と「正義と平等運動(Justice and Equality Movement: JEM)」からの攻撃に対処するために、国軍を展開し、かつ現地の民兵を動員することに決定した。この決定によって暴力が未曾有のレベルまで高まった。スーダン軍による無差別空爆やアラブ系遊牧民民兵組織ジャンジャウィードやその他の民兵による攻撃で、地域の村落は跡形もなく破壊されてしまった。住民が殺害され、女性や少女は強姦され、子どもたちは誘拐され、食糧や井戸が破壊された。2004年7月、アフリカ連合(AU)は、アブジャでスーダン国内の和平会談で交渉を開始した。同時に、60人の軍事監視員と310人の保護部隊をダルフールへ派遣し、4月に政府、SLM/A、JEMが署名した人道的停戦合意の実施を監視させた。他方、国連と非政府組織は大規模な人道活動を開始した。

2005年1月、安全保障理事会の要請によって設置された調査委員会は、スーダン政府はダルフールで集団殺害政策を進めはしなかったが、その軍隊やその民兵組織ジャンジャウィードは「一般市民の殺害、拷問、強制的行方不明、村落の破壊、レイプやその他の性的暴力、略奪、強制退去などを含め、無差別攻撃」を行った、と報告した。戦争犯罪や人道に対する罪は集団殺害よりは悪質だとは言えないが、ダルフールの反政府勢力は略奪や一般市民の殺害など、戦争犯罪とも言える行為に対して責任を有すると結論した。理事会は、ダルフールに関する委員会の調査書類を国際刑事裁判所(International Criminal Court: ICC)へ送った。

3年にわたる激しい内戦の後に、アフリカ連合の努力によって、2006年5月、ダルフール和平合意が署名された。これは権力の配分、富の配分、包括的停戦、治安取り決めを取り上げたものであった。全紛争当事者が出席したが、合意に署名したのは政府とSLM/Aだけであった。2006年8月、安全保障理事会はUNMISの任務を拡大してダルフールへの展開を可能にした。しかし、スーダン政府は国連平和維持要員の同地域への展開に反対した。2006年11月に入って、スーダン政府は、国連とアフリカ連合の合同ミッションをスーダンに設立することについては原則として支持した。数カ月に及ぶ交渉を経て、2007年7月、安全保障理事会は「ダルフール国連・アフリカ連合合同ミッション」African UnionUnited Nations Hybrid Operation in Darfur: UNAMID)を設立し、ダルフール情勢を包括的に取り上げさせることにした。これは、国連が関与する初の合同部隊で、これまでで最大の国連平和維持活動となった。

他方、2007年4月、国際刑事裁判所(ICC)は人道に対する罪と戦争犯罪の罪で元内相とジンジャウィード民兵リーダーに逮捕状を発行した。スーダン政府の立場は、ICCはスーダン市民を裁く管轄権はなく、2人をハーグの当局へ引き渡すことはしない、というものであった。2008年、ICC検察官は、戦争犯罪と人類に対する罪の容疑でスーダン大統領を訴追し、2009年3月に逮捕状が出された。2010年7月、大統領はさらに集団殺害の3つの訴因で起訴された。

スーダン政府と反政府組織JEMは2010年2月に停戦合意に署名し、暫定的にさらに和平を求めることに合意した。しかし、合意に反して軍隊がある村に攻撃と空爆を行ったとの非難のもとに会談は行き詰まってしまった。JEMはこれ以上の交渉はボイコットすると述べた。

UNAMIDの完全な展開は、政府の協力欠如と部隊や警察表員の派遣準備の遅れ、それに同地域に固有の膨大な後方支援の課題で損なわれた。2010年遅くにかけて、UNAMIDは部隊、輸送、航空資産の不足は続いた。その資源が限られているにもかかわらず、ミッションは市民を保護し、人道的救援活動を容易にし、そして平和が根付くような環境を提供できるように支援した。2010年9月、フィールド支援担当事務次長は、合同行動計画は当事者間にうまく発展し、懸案中の問題はすべて月例会議で取り上げられていることに留意した。課題が山積みしていることを認める一方、いくつか改善が見られたことに留意した。2010年初め、国連職員は、政府軍と反政府軍との衝突の再開や部族間の戦闘によって人道状況は悪化しているとの警告を行った。国連・アフリカ連合の合同平和維持要員に対する攻撃や国連スタッフや援助要員の誘拐や不当な取り扱いなど、事態は悪化した。

ソマリア

1991年にシアド・バレ大統領の政権が打倒され、内戦状態に突入して以来、680万のソマリア人は無政府状態の中で生活してきた。国土は敵対する部族の領地に分割され、国連の禁輸に違反して武器や弾薬、爆発物が国境を越えて自由に持ち込まれた。事務総長開催の会談によって首都モガディシュで停戦が成立したことを受けて、安全保障理事会は、1992年4月、「国連ソマリア活動(UNOSOM I)」を設立した。その任務は停戦を監視し、国連要員、装備、備品の保護と安全を提供し、人道援助の輸送を護衛することであった。しかし、治安状態が悪化したことから、理事会は12月、人道援助物資の安全な輸送を確保するために、「統一タスクフォース(UNITAF)」を設立する権限を加盟国に与えた。1993年3月、理事会はUNOSOM IIを設立して、平和を回復するというUNITAFの努力を終了させることにした。しかし部族間の闘争はエスカレートし、UNOSOM IIは1995年3月に撤退した。事務総長は4月に国連ソマリア政治事務所(UN Political Office for Somalia: UNPOS)(www.unsomalia.org)を設置した。UNPOSは、事務総長がソマリア指導者、市民団体、関心ある国家や機関との接触を通して平和と和解を進められるように支援する。UNPOSはジブチのイニシアチブを支援した。そのイニシアチブによって2000年に「暫定国民政府」が樹立されたが、その権限について南部のソマリア指導者や北東部の「プントランド」における地域政権、北西部の「ソマリランド」が異議を申し立てた。

2002年、政府間開発機構(IGAD)主催の国民和解会議が開かれ、敵対行為の停止と国民和解プロセスを規制する組織と原則に関する合意が生まれた。そのプロセスが2004年に実を結び、ソマリアの指導者は5年の期限をもつ「暫定連邦政府(TFG)」――国際的に認められたソマリアの連邦政府――と「暫定連邦議会(TFP)」に合意した。TFGとTFPは、2004年に採択された暫定連邦憲章に規定される暫定連邦機関(Transitional Federal Institutions: TFIs)の2つの機関として設置された。憲章は新憲法の制定に向けた5年の任期と国政選挙による代議政府の樹立までの暫定であると説明している。2004年10月、「プントランド」大統領のアブドゥラヒ・ユスフ・アーメドがソマリア暫定連邦政府(YFG)の大統領に選出された。25人の大統領候補全員が彼を支持し、それぞれがその民兵の武装解除を行うと約束した。しかし、2006年5月までには「平和の回復と反テロリズムのための同盟(Alliance for the Restoration of Peace and CounterTerrorism)とシャリア法廷の重装備の民兵がモガディシュで戦闘状態に入った。6月、TFGと「イスラム法廷連合」が相互承認、対話の継続、緊張を高める行動の自制を誓った。しかし、7月、イスラム法廷に忠実な勢力がバイドアからおよそ60キロの町まで前進した。

2006年12月、安全保障理事会は、ソマリアで保護・訓練ミッションを設立する権限をIGADとアフリカ連合加盟国に与えた。その任務には、当事者による合意実施の進捗状態を監視すること、バイドアの治安を維持すること、暫定連邦機関のメンバーとインフラを保護すること、ソマリア国家治安部隊の再設立を支援することなどが含まれた。モガディシュの激しい戦闘を避けて何十万人もの人々が逃げ出したことから、安全保障理事会は2007年2月、「アフリカ連合ソマリア・ミッション(AMISOM)」として知られるより広い活動を行う権限をアフリカ連合に与えた。AMISOMは、IGADミッションに代わるもので、安全で安心できる環境を作るという任務を果たすために必要なあらゆる措置を採る権限を与えられた。それ以来理事会はAMISOMの権限を繰り返し延長し、可能ならば2011年から国連の活動を始められるように対応計画を続けることを承認した。2009年、国連AMISOM支援事務所(UnitedNations Support Office for AMISOM: UNSOA)がナイロビに設置された。アフリカ連合の作戦に後方支援と技術的支援を提供する。2010年後半まで、藩基文事務総長は、治安状況を考えると、国連ミッションの展開は現実的でも実行可能でもないと考えていた。こうしたことから、国連はTFGと反政府グループとの間の対話を奨励し、AMISOMを強化することに力を入れた。

2006年、イスラム法廷会議(ICU)は南部の多くを取り込んだ。暫定連邦政府は、エチオピア部隊とアフリカ連合の平和維持要員の助けを借りて、ICUを追い出すことができた。ICUは様々な勢力に分裂した。アル・シャバブを含む過激派は再編成され、暫定連邦政府に対して暴動を再開し、またエチオピア軍の駐留に反対した。2008年までにアル・シャバブはバイドアをはじめ、主要な地域を掌握した。2008年12月、アブドゥラヒ・ユスフ・アーメド大統領が辞任した。翌年の1月、シャリフ・アフマドが大統領に選出され、オマル・アブディラシド・アリ・シルマルケが首相に指名された。同じ月、エチオピア部隊が撤退した。アフリカ連合の部隊に支援された暫定連邦政府は2009年2月に反撃を加え、南部の支配を奪い返した。2010年を通し、連邦政府部隊とアルカイダに結びつく過激派勢力との間に戦闘が続いた。

2009年現在で、およそ67万8,000人の避難民が国連難民高等弁務官の責任の下にあった。これはイラク、アフガニスタンに次ぐ世界で三番目に大きな難民グループである。国土の南半分での戦闘によって、推定13万2,000人の人々がその地を離れ、それとは別に30万人が国内避難民となった。他方、UNPOSは引き続きソマリアの指導者、市民団体、関係諸国や機関との接触を通して平和と和解を促進した。

紛争の結果、ソマリアの沿岸沖には海賊が急増した。安全保障理事会は海賊に対処するための決議を何回か採択し、2008年には、多国籍連合がアデン湾に海上安全パトロール海域を設定した。こうした努力によって2010年にはアデン湾の海賊行為が減少した。それでも海賊行為は依然として同海域での海運に大きな脅威となっている。

エチオピアとエリトリア

1991年にエチオピアの軍事政権が崩壊すると、「エリトリア人民解放戦線(Eritrean People's Liberation Front:EPLF)」は暫定政府の樹立とエチオピアとの関係に対するエリトリア人民の願望を決める住民投票を行うと発表した。住民投票委員会からの要請に応えて、総会は「国連エリトリア住民投票検証監視団(United Nations Observer Mission to Verify the Referendum in Eritrea: UNOVER)」を設立し、1993年の住民投票の組織と実施を監視させることにした。有権者の99パーセントが独立を支持し、その後間もなくエリトリアは独立宣言を行い、国連に加盟した。

1998年5月、紛争中の国境地帯を巡ってエチオピアとエリトリアとの間に戦闘が始まった。安全保障理事会は敵対行為の停止を要求し、国境の画定と境界線について技術的な支援を申し出た。2年後、OAU主催のもとに行われた近距離交渉に続き、敵対行為の停止に関する合意がアルジェで行われた。休戦協定の実施を助けるために、安全保障理事会は2000年7月、「国連エチオピア・エリトリア・ミッション(United Nations Mission in Ethiopia and Eritrea: UNMEE)」を設立し、それぞれの首都に連絡将校を展開させた。国境地帯には軍事監視要員が展開された。9月、理事会は敵対行為の停止を監視し、両国が合意した安全保障についてのコミットメントを順守させるために、4,200人の軍事要員を展開させることを承認した。

平和維持要員の到着とともに、エチオピア、エリトリア両国軍が再展開され、暫定安全保障地帯(TSZ)が作られた。UNMEEは安全保障地帯を巡回し、監視することになった。2002年12月、当事者間に合意が見られ、軍事的対立を恒久的に中止し、戦争捕虜を釈放することになった。合意はまた、国境線の画定を行う独立した委員会の設置も求めていた。2002年4月、中立的な国境委員会は国境線の画定について最終的かつ拘束力のある決定を行った。安全保障理事会は、UNMEEの任務を調整し、画定作業に役立つ地雷除去を行い、かつ国境委員会の現地事務所を支援させることにした。軍事情勢はおおむね安定していたが、エチオピアが国境委員会の勧告を拒否したことから、和平プロセスの危機的状況が続いた。国境委員会の決定の実施に進展がないことから、エリトリアは、安全保障地帯に対して事務総長の言う「重大な違反行為」を始めた。同時に、国連ヘリコプターの飛行禁止など、UNMEEの作業に対して「妨害」を行った。その結果、UNMEEの承認された兵力は大幅に削減され、始まった時の4,200人から2006年の2,300名へと削減され、2007年の初めには1,700人までになった。

その年の11月、潘基文事務総長は、国境に沿った軍事増強と軍事演習に懸念を表明し、安全保障理事会は、2002年の境界線画定の決定を即時かつ無条件に実施するよう両当事国に要請した。理事会はまた、武力の行使を自制し、平和的手段によって問題の解決を図り、その関係を正常化させるよう訴えた。2008年7月、理事会は、エリトリアが押し付ける制限事項を考慮し、UNMEEの任務を終了させた。

ダルフール国連・アフリカ連合合同ミッション

安全保障理事会は、2007年7月31日、国連が参加する始めての合同部隊を設立した。「ダルフール国連・アフリカ連合合同ミッション(African UnionUnited Nations Hybrid Operation in Darfur: UNAMID)である。北ダルフールのエル・ファシェルに本部がある。国連軍と元アフリカ連合スーダン・ミッション(AMIS)を統合したもので、紛争地域に平和をもたらす包括的な活動を行う。

完全に展開されると、これまでなかった最大規模の平和維持活動となる。2010年後半現在で、2万2,000人の軍事要員、3,762名の現地採用および国際任用のスタッフ、454人の国連ボランティアで構成される。

2010年、UNAMIDは、一般市民の保護に加え、人道的援助の安全、停戦合意の実施の監視と検証、包括的な政治プロセスの育成支援、人権と法の支配の支援、チャドと中央アフリカ共和国との国境にそった状況の監視と報告の任務が求められた。