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「人権デー2013」第1回
車いすテニスで、障害者の未来を明るく照らす
~プロ車いすテニスプレーヤー 国枝慎吾(くにえだ しんご)さん~

今年9月に行われた全米オープンテニスで戦う国枝さん

2008年の北京、2012年のロンドンのパラリンピックと2大会連続金メダルを取得し、現在、世界ランキングNo.1のプロ車いすテニスプレーヤー、国枝慎吾さん。これだけの偉業を成し遂げた原動力はどこにあるのでしょうか。11歳で初めて車いすテニスに出会い、高校生になって「何か一つ人生において胸の張れるものを持ちたい」という強い思いが車いすテニスを極めるきっかけとなった、と語ります。

現在も練習の拠点とする吉田記念テニス研修センター(千葉県柏市)は、国枝さんが初めて車いすテニスのレッスンを受けた場所でもあります。当時としては珍しく、センターでは通常レッスンに加えて車いすテニス・レッスンも行っていました。そこから自宅まで30分という近距離に暮らしていたのも、国枝さんの持つ強い運なのでしょう。「たくさんの人との出会いのおかげで、今の自分があるんです」と、世界最強プレーヤーの周囲に対する温かい感謝の気持ちが伝わってきました。

2009年にプロに転向した際、スポンサー探しをしていた国枝さんにユニクロから申し出がありました。「ユニクロさんが社内の方針として『世界1位になる』ことを掲げていて、私の目標と合致したのです」それから4年、ユニクロと国枝選手が生み出す相乗効果は広がりを見せています。障害者を積極的に雇用しているユニクロと連携することは、国枝選手にとって励みになっていることはもちろんのこと、2012年10月にはユニクロのプロジェクトで、東日本大震災で被災した子ども達が通う石巻市立釜小学校で交流を行いました。

石巻市釜小学校の児童たちとの集合写真

インタビューを通じて国枝選手がしばしば発した言葉のひとつに、「障害者に対する社会の見方」がありました。車いす使用歴は20年あまり、「障害を持っているのに頑張ってるね」、「えらいね」とプロの車いすプレーヤーであるにもかかわらず、このように声をかけられることが今でもあるそうです。「自分としては足が悪いので車いすを使ってテニスをやっている、ただそれだけなのに」、周囲はそう捉えていないことに気づかされることがしばしばあるそうです。このような「意識のずれ」を少しでも無くしたい、そのためにもプロとして頑張ることで、障害者への見方が変わっていくことに貢献したい、と国枝選手は願っています。

話はやはり、「2020年東京パラリンピック」に行きつきました。国枝さんにとって、ロンドンのパラリンピックは、障害を持つ人々にとって大成功だったと評価しています。なぜなら、観客が「スポーツを観に来て、心から楽しんでいた」からです。日本もこんなパラリンピックを目指すべきだというのが国枝さんの意見です。東京パラリンピックまであと7年、いかに障害者に対する固定観念を打ち破ることができるか、いかに社会全体の意識改革ができるか、それが東京大会を成功させる鍵だと国枝さんは言い切りました。

今回のインタビューを通して、国枝さんの現在の活躍の原動力になっているものが少し見えてきました。「世界1位となって、初めて誰の背中も見えなくなり、『対 誰か』ではなく、『対 自分』で考えるようになりました」自分自身に挑戦し、自らを超えるために日々の練習を重ねる努力が、きっと彼の原動力なのでしょう。そんな国枝さんの姿を知り、多くの人が勇気をもらっています。子ども達やそのご父兄から「自分でも車いすテニスをしたい」、「うちの子にもやらせたい」と連絡があり、「やっぱり、車いすテニスを続けていてよかった。選手冥利につきます」と、世界1位の選手も嬉しさを隠せませんでした。

石巻ローンテニスクラブでの交流会の様子
石巻市釜小学校での交流会の様子
インタビューを受ける国枝さん
(千葉県・柏市 吉田祈念テニスセンターにて)

「勝つことでこのスポーツをPRしていこう。勝つことが車いすテニスの普及につながる」、という信念を持って試合に挑んでいる国枝さん。プロになってから、生来の負けず嫌いに一層拍車がかかっていると言います。彼の夢は、車いすテニスに関心を持つ子ども達の芽を育むことです。車いすは決して安い買い物ではありません。車いすの提供、施設の充実、さらにはレッスン会の開催などのシステムを作ることに関わっていきたい、と国枝さんは意欲的です。こういった着実な一歩一歩が車いすテニスの未来を明るくし、さらには東京パラリンピックの成功にもつながっていくに違いありません。世界を代表する車いすテニスプレーヤー国枝選手の「人々の意識を変える」プレーは、既に始まっています。