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アパルトヘイト出典「国連の基礎知識」

国連の最高の成功例の一つが、南アフリカのアパルトヘイトを廃止させたことである。このことによって、国連は世界の大きな不正行為を終わらせることができることが立証された。国連はほぼその創設期からアパルトヘイトとの闘いに係ってきた。アパルトヘイトとは、南アフリカが1948年から1990年代初めまで実施した、法によって定められた人種隔離と差別の制度である。

1966年、アパルトヘイトは国連憲章および世界人権宣言と相容れない「人道に対する罪」として国連から非難された。アパルトヘイトはその廃止まで国連総会の議題であった。

  • 1950年代、総会は国連憲章の原則に照らしてアパルトヘイトを放棄するよう南アフリカ政府に繰り返し訴えた。
  • 1962年、総会は南アフリカの人種差別政策についての検討を続ける目的で、国連反アパルトヘイト特別委員会(United Nations Special Committee against Apartheid)を設置した。その後、特別委員会はアパルトヘイト撤廃を求める国際社会の包括的行動計画を実施する中心的な機関となった。
  • 1963年、安全保障理事会は南アフリカに対して任意の武器禁輸を発動させた。
  • 1970年から1974年にかけて、総会は通常総会に対する南アフリカの委任状を拒否した。この禁止によって、南アフリカは1994年のアパルトヘイトの廃止まで総会の審議に参加しなかった。
  • 1971年、総会は南アフリカとのスポーツ交流をボイコットするよう呼びかけた。これは南アフリカ国内および海外の世論に大きな影響を与えた。
  • 1973年、総会は「アパルトヘイト犯罪の抑圧及び処罰に関する国際条約(International Convention on the Suppression and Punishment of the Crime of Apartheid)」を採択した。
  • 1977年、安全保障理事会は、南アフリカの近隣諸国に対する侵略とその潜在的核開発能力は国際の平和と安全に対する脅威を構成すると決定し、武器禁輸を強制的なものとした。これは、理事会が加盟国に対して強制措置をとった最初の例であった。
  • 1985年には「スポーツにおける反アパルトヘイト国際条約(International Convention against Apartheid in Sports)」を採択した。
  • 同じく1985年、南アフリカ政府が非常事態を宣言して抑圧をエスカレートさせたため、安全保障理事会は初めて国連憲章第7章の下に、南アフリカに対する経済制裁を実施するよう加盟国政府に要請した。
  • 1990年、南アフリカ政府と主要政党との間に国民和平合意 が結ばれた。これによって、アパルトヘイト政府から非人種主義に基づく民主主義への移行が可能となった。この移行は国連の全面的な支持を受けることになった。

1992年、和平合意の枠組みを強化するために、安全保障理事会は国連南アフリカ監視団(United Nations Observer Mission in South Africa: UNOMSA)を展開させた。UNOMSAは、非人種主義の民主主義政府の樹立に導いた1994年の選挙を監視した。新政府の発足と最初の非人種主義に基づく民主主義憲法の採択をもって、アパルトヘイト制度は終わった。

1994年、新しく選出された南アフリカ大統領、ネルソン・マンデラは国連総会で演説し、49年にも及ぶ国連の歴史の中で、多数を占めるアフリカ人から選ばれた南アフリカの国家元首が国連総会で演説するのは初めてのことである、と指摘した。アパルトヘイトが征服されたことを歓迎し、マンデラ大統領は、「その歴史的変化が訪れたのは、人道に対するアパルトヘイト罪の排除にかかわってきた国連の多大な努力によるものであった」と述べた。