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世界人権宣言の歴史 ― 2018年は採択70周年 ―

2018年04月10日

1950年、世界人権宣言採択2周年記念にあたり、この歴史的文書のポスターを見つめるニューヨークの国連国際保育園の園児たち©UN Photo

1948年12月10日に国連総会が採択した世界人権宣言(UDHR)は、第2次世界大戦の経験から生まれました。戦後、国連が創設されると、国際社会はこのような残虐行為の再発を決して許さないことを誓いました。世界のリーダーたちは、あらゆる場所のあらゆる人の権利を保障するためのロードマップをもって、国連憲章を補完することを決めました。後に世界人権宣言となるこの文書案は、1946年の第1回国連総会で審議されました。

総会はこの「基本的な人権と自由に関する宣言」案を審議したうえで、「人権委員会が…国際権利章典を策定する際の参考」として、これを経済社会理事会に送付しました。人権委員会は1947年初めの第1会期で、そのメンバーに「国際人権章典の素案」を策定する権限を与えました。この作業はその後、地理的配分に配慮を行ったうえで選出された委員会メンバー8名からなる正式な起草委員会が引き継ぎました。

人権委員会は政治的、文化的、宗教的背景を異にする18カ国の委員で構成されていました。UDHR起草委員会の委員長を務めたのは、フランクリン・D・ルーズベルト米大統領の未亡人、エレノア・ルーズベルトでした。その他、委員会のメンバーには、宣言の原案を作成したルネ・カサン(フランス)、委員会報告者を務めるチャールズ・マリク(レバノン)、副委員長を務める張彭春(中国)、国連人権部長を務め、宣言の青写真を作ったジョン・P・ハンフリー(カナダ)が名を連ねていました。しかし、人権宣言採択の原動力として認識されているのはルーズベルト氏です。

人権委員会は1947年に初会合を開きました。エレノア・ルーズベルトはその回想録で、次のように振り返っています。

「張氏は多元論者で、究極の真実はひとつではないという意見を雄弁に展開しました。張氏によると、人権宣言は欧米の考え方だけを反映すべきではなく、よってハンフリー氏は折衷主義的なアプローチを採用する必要がありました。これはハンフリー氏に対する発言でしたが、実際に矛先を向けられたマリク氏は直ちに反論し、トマス・アクィナスの哲学について長々と講釈しました。ハンフリー氏も熱弁をふるいましたが、私は張氏がある時点で、事務局は数カ月かけて、儒教の基礎をしっかり学んだほうがよいのではないかと提案したのを覚えています」

カサンによる最終原案は、ジュネーブで開催中の人権委員会に提出されました。国連全加盟国によるコメントを求めるために送付された宣言案は、ジュネーブ案として知られるようになりました。

宣言の原案は1948年9月に提出され、50カ国を超える加盟国が最終案の策定に参加しました。パリで開かれていた総会は、1948年12月10日の決議217 A (III) により、世界人権宣言を採択しました。8カ国が棄権したものの、反対票を投じた国はありませんでした。起草小委員会のメンバーを務めていたエルナン・サンタクルス(チリ)は、次のように記しています。

「私には、人間の至上の価値に関するコンセンサスが生まれた、まさに歴史上の一大事に参加しているというはっきりとした認識がありました。その価値は、世俗的な権力者の決定ではなく、人間の存在という事実それ自体に由来するものであり、これによって、欠乏や抑圧のない状態で暮らし、それぞれの個性を十分に育むという不可侵の権利が生まれたのです。大会議場では…全世界から集まった男女の間に真の連帯感と友愛の雰囲気が漂っていました。それはいかなる国際舞台でも、私が二度と目にすることのなかった光景でした」

UDHRの条文は2年足らずで完成しました。世界が東西の陣営に分断していた時代に、宣言の本質的なあり方について共通の理解を得ることは、とてつもなく大きな課題でした。

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原文(English)はこちらをご覧ください。