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「長い道のり」 - 写真・映像で振り返るパレスチナの歴史

2015年01月28日

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「長い道のり」 : 写真・映像で振り返る 国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の歴史

国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は設立以来、映画や写真を通じて、パレスチナ難民の暮らしと歴史の全側面を記録してきました。これによって、ネガ43万枚、プリント写真1万枚、スライド8万5,000枚、映画75編、ビデオカセット730本を超える膨大な視聴覚資料ができ上がりました。この資料は現在、パレスチナ人の遺産と記憶を保存するとともに、長い年月にわたる避難生活にもかかわらず、パレスチナ人が保ち続けてきた尊厳と強靭性を物語る膨大な記録を幅広い方々がご覧になれるよう、デジタル化が進められているところです。その第一弾として、11月28日からエルサレム旧市街のアルママル・センターで開催されている展示会「長い道のり」では、象徴的な写真や映画の一部が公開されています。

「4世代のパレスチナ難民、ヨルダン」・年不詳、写真:M. Nasr © UNRWA Archives

 「4世代のパレスチナ難民、ヨルダン」年不詳、写真:M. Nasr © UNRWA Archives

 「長い道のり」では、UNRWAの記録資料から、象徴的な写真や映画を選んで展示しています。これらはいずれも、尊厳と苦難に満ちたパレスチナ人の遺産を物語る資料です。現代史上、最も長く続く強制移住のひとつの歴史をたどる旅へと、見る者を誘い込む画像からは、パレスチナ難民が直面してきた課題だけでなく、こうした課題への対応において難民たちが見せた創意工夫や強靭性、堅実さも窺い知ることができます。以下は「長い道のり」で展示されている主な写真とその説明です。

「難民キャンプを見下ろす国連旗」年不詳、写真:M. Nasr © UNRWA Archives

 「難民キャンプを見下ろす国連旗」年不詳、写真:M. Nasr © UNRWA Archives

資料のデジタル化と並行して、UNRWAはメディアや学術者、著者その他、1948年から現在に至るまでのパレスチナ難民の世界を研究したり、探求したり、単に認識したりすることを望む方々が、1,948件の画像を閲覧できる ウェブサイト を開設しています。UNRWAはさらに、UNRWA資料デジタル化プロジェクト向けに特別のビデオも制作しました。このビデオでは、UNRWA初期の主な写真家の一人、ジョージ・ネーメー氏の作品を紹介し、その被写体となった人々の現在の姿を追っています。画面を下にスクロールすると、ビデオがご覧になれます。

 1944年 ー 1966年

 アラブ・イスラエル戦争の結果、1948年4月から8月にかけ、70万を超えるパレスチナ人が避難民となりました。UNRWAは1949年12月8日、国連総会決議302 (IV) に基づき、この紛争が公正かつ持続可能な形で解決されるまで、パレスチナ難民に対する直接的な救済・事業プログラムを提供することを任務として創設されました。UNRWAの活動は、1950年5月1日に始まりました。当初の優先課題として、小麦粉やコメ、チーズ、石鹸などの必需品を含む物資の大規模な配給が行われました。UNRWAは1955年までに、難民キャンプのテントをプレハブの避難所や軽量コンクリート・ブロックの住宅に置き換えることにより、徐々に生活条件を改善しました。キャンプ内では脱水症状に陥る乳児が相次いだため、UNRWAは医療援助の提供に加え、乳児の下痢治療向けの救命用経口補水フォーミュラ「ナジャール塩」の先駆的な利用も行いました。1966年までに、登録された難民の数は130万人を超えました。

「難民キャンプのテントはセメント・ブロックの住宅に、ハーンユーニス(ガザ地区)」

「難民キャンプのテントはセメント・ブロックの住宅に、ハーンユーニス(ガザ地区)」1955年、写真:Madvo © UNRWA Archives

1967年 ー 1981年

 1967年6月の戦闘によって、パレスチナ難民12万人を含む数十万人が避難民となり、多くはアレンビー橋を渡ってヨルダンをはじめとする近隣国に逃れました。UNRWAは緊急援助と救援を行うとともに、イスラエルによるヨルダン川西岸、ガザ両地区の占領によって生じた避難民を収容するキャンプも設けました。1970年9月には、「黒い9月」と呼ばれるパレスチナ解放機構(PLO)とヨルダン軍との紛争が勃発した結果、パレスチナ難民数千人がヨルダンから追放されました。ヨルダンに逃れてからわずか数年で、再び避難を余儀なくされた難民も多くいました。

1「1967年のアラブ・イスラエル紛争中、アレンビー橋を渡って避難するパレスチナ難民」 2「1967年のアラブ・イスラエル紛争中、アレンビー橋を渡って避難するパレスチナ難民」

 「1967年のアラブ・イスラエル紛争中、アレンビー橋を渡って避難するパレスチナ難民」1967年、写真:撮影者不詳 © UNRWA Archives

1974年には、イスラエルのレバノン空爆で、ナバティエその他3カ所の難民キャンプが破壊されました。ナバティエだけでも、難民3,000人以上が暮らしていたUNRWAのコンクリート・ブロック造りの避難所の80%が攻撃を受けました。1975年に勃発したレバノン内戦は、1990年まで続きました。情勢不安が募る中で、UNRWAは1976年、ベイルートの本部を去ることを余儀なくされ、まずアンマン、さらにはウィーンへと移転しました。1978年には、イスラエル軍がレバノン南部で軍事作戦を展開し、パレスチナ難民約6万7,000人が避難しました。1980年までに、パレスチナ難民の総数は200万人を超えました。

「ドゥバイヤ・キャンプの補助給食センター、レバノン」

 1982年 ー 1986年

1982年6月6日、イスラエルはレバノンに侵攻しました。1982年9月16日から18日にかけ、ベイルート南部のサブラーとシャティーラで、パレスチナ難民その他の民間人数百人が殺害されました。こうした事態を受け、UNRWAは大規模な緊急援助プログラムを立ち上げました。

 「1982年のイスラエルのレバノン侵攻で被害を受けたベイルートの難民キャンプ」

「1982年のイスラエルのレバノン侵攻で被害を受けたベイルートの難民キャンプ」1982年、写真:H. Haider © UNRWA Archives

1987年 ー 1995年

「第1次インティファーダの期間中、入口を封鎖されたパレスチナ難民キャンプ」

 1987年12月9日、イスラエルによるガザ、ヨルダン川西岸両地区の占領に抗議する民衆が蜂起し、第1次インティファーダが始まりました。UNRWAはその人道対応を調整するための緊急基金を設立しましたが、1990年には、1982年からレバノン向けに運用されていた類似の基金とこれを統合し、レバノンと被占領地域のための緊急措置(EMLOT)を立ち上げます。1991年10月30日、マドリード会議により、後に「中東和平プロセス」と呼ばれることになる一連の協議がスタートします。1993年、本部をガザ市に移したUNRWAは「平和履行計画」の策定を開始し、活動の責任を徐々にパレスチナ暫定自治政府に移す準備に取りかかりました。イスラエルは1995年、エリコとガザから撤退します。

第1次インティファーダの期間中、入口を封鎖されたパレスチナ難民キャンプ」 年不詳、写真:G. Nehmeh © UNRWA Archives

 1996年 ー 2005年

 2000年9月、第2次インティファーダが始まりました。UNRWAは武力紛争や封鎖、経済情勢の悪化によって影響を受けた難民向けに、広範な緊急援助プログラムを立ち上げました。ヨルダン川西岸地区では、封鎖や検問、さらに後には分離壁による影響を受けた地域で、UNRWAの保健サービスへの継続的アクセスを容易にするため、5つの移動保健チームが活動を開始しました。2002年、イスラエルは西岸地区の境界線とその内部に多重のフェンスを設ける「西岸分離壁」の工事をスタートさせました。この分離壁によって、パレスチナ人数千人の生計手段や必須サービスへのアクセスが制限され、多くの世帯が農地から隔絶されたり、取得が難しい許可証の申請を余儀なくされたりしています。UNRWAは2005年、キャンプで暮らすパレスチナ難民の生活条件悪化に取り組むため、インフラ整備・キャンプ改善プログラムを策定しました。イスラエルは2005年8月、ガザ地区から一方的に撤退しました。

 「第2次インティファーダの期間中に生じた破壊、ガザ」

 「第2次インティファーダの期間中に生じた破壊、ガザ」2001年、写真:K. Hamra © UNRWA Archives

 2006年 ー 現在

国民統一政府が短命に終わると、ハマスは2007年6月中旬、ガザ地区の実効的支配を確立しました。2007年5月、トリポリ付近のパレスチナ難民キャンプ、ナハルアルバーリドで、レバノン国軍と過激派組織「ファタハ・アル=イスラーム」との間で戦闘が発生します。UNRWAは2009年、再建作業をスタートし、2010年には難民の第一陣がキャンプに帰還します。

「ナハルアルバーリド・キャンプの破壊、レバノン」

 「ナハルアルバーリド・キャンプの破壊、レバノン」2009年、写真:撮影者不詳 © UNRWA archives

2007年6月、イスラエルがガザ地区を陸上封鎖すると、経済的、社会的に大きな影響が生じます。2008年12月、イスラエルは22日間にわたり、ガザ地区で大規模な軍事作戦を展開し、非戦闘員773人(うち320人は子ども)を含むパレスチナ人1,387年が死亡します。2009年、イスラエルはガザ地区を海上封鎖します。長年にわたる紛争と封鎖により、ガザ地区では2013年までに、パレスチナ難民である住民の70%以上を含め、住民全体の80%が国際援助に依存するようになりました。

「停電の中で宿題をするパレスチナ難民」

「停電の中で宿題をするパレスチナ難民」2012年、写真:S. Sarhan © UNRWA Archives

シリアでは、2011年3月の一般市民のデモをきっかけに、長期にわたる激しい紛争が発生し、国内で登録されているパレスチナ難民50万人以上に影響が生じます。2013年までに、その大多数がシリア国内や近隣国で避難民となっています。UNRWAは引き続き、パレスチナ難民のコミュニティに定期的なサービスと緊急サービスを提供するとともに、安全を求めてシリアからレバノンやヨルダン、ガザ地区に逃れたパレスチナ難民に対しては、避難所や宿泊施設、現金支援、食糧、緊急医療の提供も行っています。

「ヤルムークでUNRWAからの食糧配給を待つパレスチナ難民、シリア・アラブ共和国」

「ヤルムークでUNRWAからの食糧配給を待つパレスチナ難民、シリア・アラブ共和国」2014年、写真:撮影者不詳 © UNRWA Archives

  ここでご紹介した写真は、UN EXHIBITS The Long Journey でご覧いただけます。