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国連広報局のプレスオフィサー 須賀 正義 さん

プロフィール

群馬県富岡市出身。1989年、早稲田大学教育学部英語英文科を卒業後、2000年まで英字紙朝日イブニングニュース記者。2000年に渡米、2001年までCNNの日本語ニュースサイト編集者。2004年、米ジョージア州立大学で経営修士号(MBA)を取得。2005年から2012年、日本経済新聞アメリカ社でニュース翻訳者。2012年3月に国際連合事務局・広報局プレスオフィサー(報道担当官)に就任、現在に至る。

国連事務局・広報局について

国連事務局内の広報局のスタッフは専門職約300人を含め700人以上いて、ニュース・メディア部、戦略コミュニケーション部、アウトリーチ部の3部署で構成されています。広報局はどんな仕事をしているのかとよく聞かれますが、全体としては広報の「スーパーマーケット」みたいな所で「何でも揃っています」といったところです。国連の仕事を広く知ってもらうという目的は各部署とも同じですが、求められているスキルは異なり、各々のポストが特化されています。

私が所属するニュース・メディア部は新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、インターネット、ソーシャルメディアなどを使って広報活動をしています。戦略コミュニケーション部は世界各地の国連広報センターを通し広報戦略を実行しています。アウトリーチ部は模擬国連、展示や国連本部ガイドツアーなどを実施しています。ニュース報道に携わる職員と模擬国連を企画する職員とでは同じ広報局でも職務内容が全く異なります。

国際機関での広報に興味がある人のために付け加えますと、広報のポストは広報局外にもたくさんあります。例えば、事務局内の人道問題調整事務所(OCHA)は本部やフィールドに広報官を置いています。事務局以外でも国際児童基金(UNICEF)などの基金・計画、国際労働機関(ILO)などの多くの専門機関は独自の広報機能を有しています。

現在の仕事について

(机上には資料の山 )

私はニュース・メディア部の会議報道課に所属し、仕事はニューヨーク国連本部で開催される総会、主要委員会、安全保障理事会、経済社会理事会などの公式会合を傍聴し、会議の内容を要約し、英文のプレスリリースを書くことです。英語のプレスオフィサー(報道担当官)は常勤が私を含め7名いますが、私以外は皆、英語が母国語です。フランス語チームもほぼ同数のプレスオフィサーがいます。予算の関係で現在は英・仏の2カ国語に限られています。

ある程度の基礎知識をもって会議に臨まないと発言のポイントを捉えることが出来ないので、資料を読むことも仕事の一部です。2013年秋開催の第68期国連総会で話し合われる議題は170以上になりますので、会期の終わりには膨大な量の資料を読んだことになります。

UN Photo/Rick Bajornas
(第68期国連総会でスピーチする
オバマ米大統領 )

総会の通常会期は毎年9月の第3火曜日に始まり、同月の下旬には各国の首脳が一堂に会し、スピーチをします。オバマ米大統領も、就任以来毎年、国連総会で演説しています。会議場にはプレスオフィサー専用の席があり、そこに設置された端末から発言を次々と要約してエディターに送ります。例えば、15分程度のスピーチは数段落にまとめます。最終原稿は、会合終了後90分以内にエディターに提出するのが原則です。ハイレベル会合が約1週間続き、それが終わると、総会は6つの主要委員会に分かれて、割り当てられた議題を話し合います。記者会見も会議報道課がカバーしています。例えば、人道支援担当の国連事務次長が自然災害後にメディア向け会見を行ったりします。9月中旬から12月にかけては会議が集中する繁忙期なので会議報道課では臨時のプレスオフィサーを雇い、スタッフは一時的に3倍になります。

第68期総会では、私はチームリーダーとして人権などを扱う第三委員会を担当しました。五カ国語に堪能なイタリア国籍の臨時スタッフ2人とチームを組みました。「社会開発」「女性の地位向上」や「人権保護」など様々な議題が第三委員会に割り当てられました。2カ月間で50以上の公式会合を開き、採択した決議の数は70を超えました。委員会の中で公式会合が一番多く、長時間労働を強いられるので、プレスオフィサーの間では「魔の委員会」と呼ばれています。非公式会合も多数開かれています。非公式会合の方が本音の議論を聞けると思いますが、それらはカバーしません。

どの仕事にもつき物ですが、困難なことも楽しいこともあります。大変なのは国連が扱うテーマが多岐で全てに精通するのは不可能に近い。前述しましたが、総会だけでも一年間で170以上の議題があります。今週は軍縮、次週は開発、その次は人権と次々に来るテーマに対応せねばならないので、十分な予備知識が無いまま会議に臨まざるを得ないこともあります。どんな議題でもドンと構えていられるようになるには経験を積む必要があります。発言を聞きながら、またステートメントを読みながら書き続けるので一日が終わると疲労困憊です。一日に50人以上の政府代表者が発言することも珍しくなく、全員のスピーチ要旨を合わせると20数ページのプレスリリースの大作が出来ます。

UN Photo/Rick Bajornas
(2012年11月29日の国連総会でパレスチナが
オブザーバー国家に格上げされる)

きつい仕事ですが、やりがいもあります。目の前で歴史が作られていると実感することも多々あります。例えば、2012年11月29日の総会では、パレスチナの国連における地位を非加盟オブザーバー国家に格上げするという決議が賛成138、反対9、棄権41で採択されました。会議場は普段はあまり見られない盛り上がり方でした。パレスチナを支援する側にとっては歴史的な日となったのです。2013年4月2日の総会においては、武器貿易条約が賛成154、反対3、棄権23で採択されました。国際条約ができるプロセスに居合わせたのは幸運だと感じています。

私の仕事はニューヨーク本部内がほとんどで、フィールドに出ることはありません。会議場にいる時間が長いので、そこが私の「戦場」です。そのため、自分の仕事が現場で役に立っているのであろうかと疑問に思うこともあります。国連は会合ばかりやっていて、実行が伴っていないのではないかという批判を耳にすることがあります。会議の運営には場内の技術管理スタッフ、同時通訳、文書配布スタッフ、書記局員、プレスオフィサーなど多くのスタッフが係わり、人件費も相当かかりますので、そうした批判も理解できます。しかし、議論を通してハイレベルの国際合意が出来ることは、プログラムを実施する現場にとって非常に重要なことです。従って、国連での議論を報道するプレスオフィサーの仕事も現場にとって重要なのだと認識しています。また、小さな国は国連に置く外交官の数も少なく、出席できる会合の数も限られています。彼らにとっては私たちが発行するプレスリリースが重要な情報源なのです。

UN Photo/Eskinder Debebe
(現在の安全保障理事会の様子。出入り口の右横に
プレスオフィサーの席がある。)
UN Photo/Paulo Filgueiras
(2007年の安全保障理事会の様子。当時は
プレスオィサーの席は円陣の中に配置されていた。)

キャリアパス

私は日本で大学卒業後、1989年、英文朝日社(朝日新聞社の子会社)に入り、英字紙朝日イブニングニュースの記者になりました。日本に住んでいる外国人に日本のニュースを英語で提供するのが仕事でした。スタッフ数が少なかったので、政治、経済、社会、文化、スポーツなど多分野の取材を経験しました。衆・参議員選挙、戦後50周年特集、阪神大震災、冬季長野オリンピックなどを担当しました。良き同僚、上司に恵まれ、仕事は面白く、やりがいもありました。

2000年、36歳で転職を決意し、米国アトランタに本社のあるCNNの日本語ニュースサイトの編集者になりました。1995年に始まった英語のCNN.comはオンラインニュースサイトの先駆けです。それ以降、ドットコムブームに火がつき、CNNも破竹の勢いで次々に外国語サイトを立ち上げました。私は2000年のCNN.co.jp創立に加わりました。CNNの国際英語ニュースを日本語に翻訳・編集して提供し、ページ閲覧数も急激に伸びていました。同じフロアにはスペイン語、イタリア語、ドイツ語チームが同居し活気に溢れていました。ところが2001年にネット業界のバブルが弾け、事業縮小となり、労働ビザで働いていた外国人スタッフは次々と失職しました。私もその一人でした。

失業を機に、大学院で情報システムのマネジメントを勉強することにしました。ナレッジマネジメントやEコマースなどのコースを学び、2004年に経営修士号(MBA)を取得しました。オンラインニュースサイトの立ち上げに参加した経験が非常に面白かったのとネットビジネスモデルなどを研究したくなり、専攻を選びました。大学院を卒業後、マスコミ業界で再就職。2005年から約6年半、日本経済新聞アメリカ社で経済・金融記事を英語に翻訳していました。

20年間近くのキャリアの中で国連との接点は殆どありませんでした。漠然と国際公務員を志そうと思ったことは、人生何度かありましたが、ハードルが高すぎると思い真剣に挑戦したことはありませんでした。

(2012年3月、47歳で国連デビュー)

転機が訪れたのは2011年。外務省の国際機関人事センターが4月に主催したコロンビア大学での国連就職ガイダンスに参加しました。国連人事部の方が来て、応募書類の書き方などを説明してくれました。その後、国連広報局で働いている邦人職員の方からもアドバイスを受け、約半年で18の空席公告の広報ポストに応募しました。どのポストも内部候補者優先ですので、私のように国連、政府機関、NGOでの経験全く無しの外部候補者が採用される確率は1%にも満たないだろうと思っていました。ところが、同年8月下旬にプレスオフィサーの試験に呼ばれ、6時間のテストを受けました。9月上旬に面接を受け、年末に採用のオファーが来ました。そして2012年3月、47歳で国連デビューとなりました。

英語との出会い

英語を母国語としない私がプレスオフィサーの仕事をしていることに対し、アメリカ人の同僚も敬意を払ってくれています。私は地方で生まれ育ち、学校の授業以外は英語に触れる機会はありませんでした。小学校低学年のとき、小さなアパートに訪問販売の人が来ました。裕福な家庭ではなかったので、家計には相当な負担だったと思いますが、両親は高価な英語のカセットテープ教材を月賦で買ってくれました。戦後の貧しい時代に育ち、教育機会に恵まれなかった両親には「子供には十分な教育を受けさせたい」という強い願いがあったのだと思います。英語が重要になる時代が来ると考えたのでしょう。ところが、そんな親心も知らない私はすぐに飽きてしまい、教材はほどんど使わないままお払い箱となってしまいました。ただ、教材の中に紙芝居があり、そのタイトルは今でも覚えています。振り返ると、初めて英語と出会ったのはその時だったのです。それが起因となって、後々、私は英語が好きになりました。私が国際舞台で活躍できるのも健気な両親のおかげですので、一生懸命、世界の平和のために働いて恩返したいと思っています。

大学では英文学を専攻し、将来は高校の英語教師になるつもりでした。教員免許も取り、英会話を学ぶため、一年間、米国ウィスコンシン州に留学もしました。ところが、留学後、気が変わり、色々模索した結果、英字紙記者の道を歩むことにしました。仕事を通して、ある程度の英語力がつきました。ただ、朝日イブニング時代も日経で翻訳をやっていたときも、英語は下手な方でした。今でも完璧な英語は書けません。ただ、プレスオフィサーになって間もない頃、アメリカ人の元上司から「たまに冠詞の使い方を間違うが、君の英語は非常に読みやすい」と褒められました。要するに明確な文が書ければ国連で通用するのです。私のしゃべる英語も日本語訛りで文法も完璧ではありません。ただ、米国に来て、積極的に発言する習慣が身についたので、現ポストの最終面接も臆することなく、受け答えが出来ました。競争相手は英語を母国語とする人達でしたので、英語の流暢さでは全く敵いません。それでも、私が採用されたのは聞かれた質問に的確に答えたからだと思います。

国連を目指す人へ

UN Photo/Andrea Brizzi
(ニューヨーク国連本部事務局)

最近、「グローバル人材」という言葉をよく聞きます。その資質とは何でしょうか。語学力、コミュニケーション能力、専門性、異文化を理解する力、奉仕精神、実行力、リーダーシップ、ビジョン、批判的思考、戦略的思考など、様々な要素が含まれると思います。それらをバランスよく身につけることが大切だと思います。すでに国連・国際機関でのキャリアを描いている若者は自分がやりたい分野に求められている職責、能力、経験などをよく研究して、逆算して着実に経験を積んでいくことが大事ではないでしょうか。私のように既に10数年以上のキャリアを積んでから、国連を考え始めたという人は自分の専門分野、経験にマッチしたポストを探し出すことが重要だと思います。国連でのキャリアは非常に魅力的ですので、多くの方がチャレンジされることを期待しています。