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国連リベリア・ミッション(UNMIL) モンロビア事務所
ミッションサポートスタッフ 池田 明子さん

池田 明子(いけだ あきこ)
国連リベリア・ミッション(United Nations Mission in Liberia: UNMIL)モンロビア事務所
ミッションサポートスタッフ

秋田県出身。小学校・中学・高校時代をシンガポールで過ごし、早稲田大学(第一文学部)卒業後、米国・ニュースクール大学院に進学。大学院在学中および卒業後、研究のためトルコ・アンカラに滞在。コンサルタントとしてジュネーブの国連ボランティア計画(UNV)で勤務後、国連ボランティアとしてケニアの国連開発計画(UNDP)で活動し、国連競争試験(社会開発)に合格。1995~2000年、ニューヨーク国連本部の経済社会局にて社会開発担当官として勤務。2000~2010年、本部の平和維持活動(PKO)局地雷対策課及びパートナーシップ事務所(国連事務総長室)にて勤務。2010年~2012年、国連イラク支援ミッション(United Nations Assistance Mission for Iraq: UNAMI)バグダット事務所と国連コートジボアール活動(United Nations Operation in Côte d'Ivoire: UNOCI)アビジャン事務所で勤務し、2012年から現職。

エボラ出血熱が急拡大しているリベリア

私が現在勤務しているリベリアでは、常に悪性マラリア、ラサ熱、コレラが発生しているうえ、現在ではエボラ出血熱が急拡大しています。8月6日現在、リベリアを含む主に西アフリカ3カ国では死者が900人を越え、同日リベリア大統領は「国家非常事態宣言」を宣言しました。リベリア政府のエボラ対策の要請が今のリベリアにあるすべての国連機関の最大な緊急及び優先課題となりました。具体的には薬、マスク、手袋、遺体袋、消毒ハンドタオルなど国連車60台(日産パトロールです)や国連機10機を使い、最も必要としている地域に輸送する支援をただちに開始しました。こういった危機的な場合でも、アフリカ全体の平和と安定のために、日本などの先進国からの医療関係の援助が必要となってきます。

10代の時に芽生えた国連への憧れ

親の仕事の都合で、10代は経済成長期のシンガポールで過ごしました。1970年代後半のアジアは波乱の時期で、シンガポールは「ボートピープル」と呼ばれるベトナム難民を受け入れていました。私が通っていた現地の日本人学校では、カリキュラムの一貫で彼らの現状の一端を垣間見る機会があり、大変ショックを受けると同時に、支援活動を行う国連諸機関への漠然とした憧れも持ちました。

また、大学時代に読んだ犬養道子さんの『人間の大地』という本で、ボートピープルたちは逃げる途中で海賊に襲われるなど悲惨な状況に置かれていたことを知り、あってはならないことだと憤りを感じました。「将来はこうした人たちの助けになるような仕事をしよう」という思いが強まり、アメリカの大学院で社会開発の修士号を取得しました。

ちょうど、国連ボランティア計画(UNV)がコンサルタントを募集していることを日本の新聞で知り、それに応募したのが私にとって国連でのキャリアへの入り口でした。ジュネーブで働いたのち、国連競争試験を受け、採用の連絡が来るまでの間は国連ボランティアとしてケニアの国連開発計画(UNDP)で避難民支援の活動に携わりました。

国連競争試験に合格し、採用が決まったのはニューヨーク本部。それから16年間、経済社会局や平和維持活動(PKO)局の地雷対策課、事務総長室のパートナーシップ事務所で勤務しましたが、私には開発途上国で育ったバックグラウンドがあるため、いつかはそういう国々のフィールドで貢献したいという思いを持ち続けていました。

現場によって異なるPKO事務所の業務

念願叶って働くことになった最初のフィールドは、イラク・バグダッドにあるPKO事務所で、主な仕事はミッションサポートでした。グリーン・ゾーン(バグダッド市内の安全地帯)からは一歩も外に出られず、ひたすら事務所とコンテナ(国連の宿泊棟)の往復。セキュリティが大変厳重な現場だったので、車から降りて歩くことも許されません。爆弾の衝撃に耐えられるように、コンテナを含む施設一帯が何重にもなった砂袋で覆われていたため、部屋の中は明かりをつけないと洞穴のように真っ暗です。またコンテナの中では料理をすることが全くできなかったのにはストレスがたまりました。好きな時に自分で作った日本食などが食べられないというストレスです。そのような環境だったので、私はコンテナの周りを散歩したりヨガをするなど、できるだけ体を動かすことでリラックスを図っていました。

イラクで2年間勤務した後、コートジボワール・アビジャンのPKO事務所に派遣されました。治安は比較的良い方で、働きやすい所です。一つの部署に150名もいる広報事務所だったので、組織規模の見直しが大きな課題でした。私は総務・人事のほか、訴訟案件も担当しました。

そして現在勤務しているリベリア・モンロビアの事務所では、イラクの時と同様、ミッションサポートという総務全般を担当しています。人事・ロジスティック(物流)・アセット(資機材)管理を統括する仕事です。また、2010年にハイチでコレラが流行して以来、汚染などの環境問題も重要視されています。フィールドでは、人材にしてもアセットにしても無駄を省くべく、限られた予算の中でいかに効率よくミッションを遂行するか、というのが大きな課題です。

リベリアPKO事務所スタッフとして、
視察ミーティングに参加(左から4人目が筆者)

国連で働くうえでの苦労と醍醐味

さきにも述べたように、リベリアは常にコレラなどの感染症が発生しているため、とても家族や子どもを連れて行く状況ではなく、女性職員のみならず男性も苦労しています。私の夫は台湾出身ですが、私のリベリア赴任に伴い、知人の経営するナイジェリア・ラゴスの工場で働き始めました。そこで、週末を利用して私が2ヵ国間を行ったり来たりして夫婦の時間を作っています。

国連では、様々な人種やバックグラウンドを持った人たちが、同じ職場で一緒に仕事をしています。国連で勤務する、と言うと同僚や上司は全員が欧米人のように思う人もいるかもしれませんが、実際はそうではありません。たとえば私の現在の上司は南米出身で、中東や南アジア出身の同僚やローカルスタッフと働いています。お互いの意見が食い違ったり、ミスコミュニケーションが起きたりするのは日常茶飯事ですが、全くの異文化の中で育った人たちが同じマンデートに向けて共に努力できるのは、国連で働く醍醐味だと感じます。

イラクPKO事務所の同僚たちと
(最左端が筆者)

国連を目指す日本の方々へのメッセージ

グローバル化が進む時代です。動機は恋愛感情でも何でも構わないので、ボランティア活動や観光旅行など世界に飛び出す機会を持ち、現地でいろいろなものを見たり学んだりすることで、視野を広げるべきだと思います。そして、世界の平和に貢献するために何か自分にできることはないか、と常に考えるチャンスをつくってほしいと思います。

国連の中での日本人の存在は、とても価値があると私は感じています。締め切りを守る、プロセスをしっかり組む、在庫の管理や報告を怠らない、他人の気持ちに敏感で空気が読めるなど、グローバルな舞台で仕事をするうえで欠かせないものを日本人は持っているからです。特に、私が担当しているアセット管理や流通の分野は、日本人の几帳面さや美徳意識の高さが生かされる現場だと感じています。

国連職員として働くにあたって、エントリーレベルであれば高度な英語力は不要です。何事も、「仕事しながら学んでいく」という覚悟があれば大丈夫なので、日本人の皆さんにもぜひ自信を持ってチャレンジしてほしいと思います。

リベリアPKO事務所の倉庫にて
(右が筆者)