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広島と長崎の惨禍、核兵器が依然としてグローバルな脅威であることを警鐘(UN News 記事・日本語訳)

2022年03月25日

自らが企画した軍縮展「広島と長崎から75年:被爆者 ― 核兵器のない世界に向けて取り組む勇敢な生存者たち」を視察するエリコ・プラットさん© UNODA/Diane Barnes

 

2022年1月15日-1945年、日本の2つの主要都市が壊滅したにもかかわらず、原子爆弾は過去のものとして歴史書に追いやられるのではなく、今日も開発が続いています。しかも、その破壊力は広島と長崎で炸裂した当時の威力をはるかに上回っています。

米国が使用したこれらの最初の核兵器は、何万人もの非戦闘員を無差別に殺戮しただけでなく、死を逃れた生存者にも消すことのできない傷痕を残しました。生存者自身、その子ども、孫たちは今もその傷を抱えています。

広島の爆心地から1.5キロメートルの場所で被爆した当時25歳の女性は、録音された証言の中で次のように語っています。「赤十字病院は遺体の山となっていました。人間の死というものは厳粛な悲しむべき出来事ですが、遺骨を集め、遺体を処理しなければならなかったため、私にはそうしたことに思いを巡らす余裕もありませんでした」

「まさに生き地獄だと思いました。その凄惨な光景は今も忘れられません」

「被爆者」という日本語で知られる生存者による不断の取り組みに目を向けてもらおうと、国連軍縮部はニューヨークの国連本部で展示会を開催しました。そのタイトルは、「Three Quarters of a Century After Hiroshima and Nagasaki: The Hibakusha – Brave Survivors Working for a Nuclear-Free World(広島と長崎から75年:被爆者 核兵器のない世界に向けて取り組む勇敢な生存者たち)」です。

展示会では、最初の原子爆弾(原爆)と、その後継兵器であり1950年代に実験が始まった、さらに強力な水素爆弾(水爆)によってもたらされた破壊と被害をまざまざと描いています。

ニューヨークの国連本部で開かれた軍縮展で。幼い弟を火葬場まで運んだ長崎の少年に関する説明を読む来場者© UNODA/Erico Platt

人類救済を求めて

日本に原爆が投下された後、被爆者は歴史が二度と繰り返すことのないようにするため、精力的な調査を行いました。

平均年齢が83歳になりその数も減りゆく中にあって、、被爆者は引き続き国内外で自らの体験や調査結果を支援者と共有しています。被爆者は、展示会の冊子ト「No More Hibakusha – Message to the World(ノー・モア・ヒバクシャ ― 世界へのメッセージ)」でこうした継続的な取り組みの目的を「私たちは、自らを救うとともに、体験から学んだ教訓を通して人類の危機を救うこと」と語っています。

当時19歳の女性は、家族11人が防空壕の中で一緒に横になっていた広島のその日を振り返り、幼い子ども3人が水を求めながらその夜中にどのように亡くなったかを語りました。

「翌朝、私たちは子どもたちの遺体を防空壕の外に運びましたが、顔があまりに膨れ上がって黒くなっていたので見分けがつかず、背の高さの順に地面に並べ、身体の大きさから誰であるか決めました」

こうした勇敢な生存者は、核兵器を使用して平和を実現することなど決してできないと証言しています。

「絶対悪」

被爆者の団体である日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は、核兵器不拡散条約(NPT)が最終的に核兵器の全面禁止につながることを願って、その実現に長年努めてきました。

冊子に証言を寄せた当時34歳の女性は次のように語っています。「(広島電鉄)白島線の満員電車に乗っていた私は、1歳半になる長女を抱えてしばらく意識を失っていました。娘の泣き声で気がつくと、電車には他に誰もいなかったのです」女性は広島の爆心地からわずか2キロメートルの場所にいました。

広島市戸坂の親戚のもとに避難した当時24歳の別の女性はこう話しています。「皮膚が垂れ下がった人々がつまずきながら歩いていて、バタンと倒れると次々に息を引き取った」ことを覚えており、「今でもこの悪い夢をよく見ます。人には『それは神経症だ』と言われます」

原爆投下後の広島に入ったある男性は、展示に「あの恐ろしい光景は何十年経っても決して忘れることができません」と寄せました。

当時25歳の女性は次のように語りました。「外に出ると、夜のように暗くなっていました。やがてどんどん明るくなって、やけどを負った人たちがひどく混乱して泣き叫びながら右往左往しているのが見えました。地獄でした。近所の人は倒れてきたコンクリート塀の下敷きになっていました。顔の半分しか見えていませんでしたが、生きたまま焼かれたのです

平和に向けた団結

「核兵器は人類と共存することのできない絶対悪であり、廃絶する以外ありません」日本被団協の確固たる信念は変わっていません。

1945年8月6日に広島へ、そしてその3日後に長崎へ投下された原爆からの生存者たちは、1956年8月に日本被団協を設立しました。

1954年のビキニ環礁における水爆実験による放射性降下物により、日本のマグロ漁船に乗船していた男性23人が被曝した第五福竜丸事件を契機とした核兵器禁止運動に後押しされ、日本被団協は、核による新たな犠牲者を出さないため揺るぎない取り組みを行ってきました。

日本被団協は、その結成大会で「私たちは、自らを救うとともに、体験から学んだ教訓を通して人類を危機から救うという決意を再確認しました」と宣言しました。

自分自身の苦しみが、自らの抱え続けている苦難が再び起こることを防ぐことにつながるというその宣言の精神は、今日の運動の中にも生き続けています。

「強烈で、凄まじい」

国連本部で展示を企画した日本人アートディレクターのエリコ・プラットさんは、UN News のインタビューに応じ、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的大流行(パンデミック)により、展示をじかに鑑賞できる人数が減ったことや、高齢の被爆者が参加できなかったことはやむを得ないと語りました。。

過去には、「少なくとも10人から30人(の被爆者)が訪問し、会場内のほか、教会や学校など国連の外でも生き証人となってきましたが、今回はパンデミックの影響で誰も来ることができませんでした」とプラットさんは述べました。

また、印刷のために展示物を完成させた後、被爆者の1人が亡くなったと明かし、高齢者と協働するうえでのもう一つの課題について語りました。

「生存者パネルの一つとしてその方を含めていましたが、お亡くなりになったため、印刷会社に電話をして印刷を中止してもらい、文言を…過去形に修正しました。そのため50枚近いパネルを完成させるのにに、わずか2週間しか残されていませんでした」とプラットさんは述べました。

亡くなった坪井直さんのパネルによると、原爆投下当時は、広島工業専門高校(現広島大学工学部)の学生でした。

「爆発で少なくとも10メートルは吹き飛ばされました。ほぼ全身にやけどを負いました。1週間後に意識を失い、意識を取り戻したのは1カ月以上後のことでした」

1945年以降、坪井さんは放射線被曝の後遺症による疾患のため、何度も入院しました。

プラットさんは、「関心を高めるため」にメディアに取り上げられる機会がもっと多ければよかったと述べ、「これまでで最も素晴らしい展示になったと思います。非常に強烈で凄まじいものですが、ある意味では美しくもあると思います」と語りました。

軍縮への後押し

原子力の平和利用における協力を推進し、核軍縮と全面的かつ完全な軍縮を達成する目標を前進させるために、1960年代後半に核兵器不拡散条約(NPT)に関する交渉が行われました。

その約10年後、国連に核兵器の禁止を呼びかけていた日本の代表団は、広島と長崎に使用された原子爆弾による被害や生存者の実情について調査するよう被団協に要請しました。

3回にわたって行われた原爆生存者の全国的調査と、さまざまな分野の専門家が文書化した研究に基づいて、被爆問題の実態を巡る初めての国際シンポジウムが1977年に開催されました。核軍縮に人々の悲劇を結び付けただけでなく、「ヒバクシャ」という語が国際的に認知されました。

展示では、その5年後、反核平和運動が盛り上がりを見せる中、米国とロシアが戦術核兵器をヨーロッパに配備しようとしたことを説明しています。日本被団協は、43人からなる代表団を第2回国連軍縮特別総会(SSDII)に派遣しました。

声を上げ、耳を傾けてもらう

その後被爆者は、核兵器廃絶に向けた行程表の作成に役立つことを願って、自身が負った苦しみについてますます声を上げるようになりました。

被爆者は口頭での証言によって原爆投下時とその後の体験を語り、2010年のNPT再検討会議に文書によるメッセージを送って世界に訴えました。

2017年7月、NPTを補完する核兵器禁止条約(TPNW)が採択され、2021年1月22日に発効しました。

アントニオ・グテーレス国連事務総長は2018年に国連の軍縮アジェンダ「共通の未来のために」を発表するにあたり、次のように述べました。「人類の存亡に関わる核兵器の脅威のため、私たちは、その全面的廃絶につながる新たな断固たる行動を実現しなければなりません。私たちは被爆者に対して、そして地球に対して、そうする責務を負っているのです」

ニューヨークの国連本部で開かれた軍縮展への来場者© UNODA/Diane Barnes

必要なのは「大胆な措置」

グテーレス事務総長は、「核の脅威に対する普遍的な闘いに勇気と道義的リーダーシップ」を発揮する被爆者の恩恵に世界は浴していると語りました。

さらに国連は、被爆者の証言をすべての新たな世代への警鐘として、生かし続けることを約束しています。

グテーレス事務総長は次のように述べています。「被爆者は、核兵器が人類の存亡に関わる脅威であり、核兵器が使用されないことを保証する唯一の方法は核兵器の完全な廃絶であることを証言する生き証人です。この目標は、1946年に国連総会で最初の決議が採択されて以来そうであったように、国連の軍縮における最優先事項であり続けます」

1月に予定されていた第10回NPT再検討会議はCOVID-19のパンデミックにより延期されましたが、グテーレス事務総長は世界の指導者に対し、立場の違いを乗り越えて「核兵器廃絶という共通目標の実現に向けた大胆な措置」を講じることにより、「被爆者の精神から学ぶ」ことを改めて要請しました。

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原文(English)はこちらをご覧ください。