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【略歴】 アシャ=ローズ・ミギロ 国連副事務総長

プレスリリース 08-025-J 2008年05月20日

アシャ=ローズ・ミギロ氏(タンザニア)は2007年2月1日、国連副事務総長に任命されました。ミギロ氏は1997年にこのポストが創設されて以来、第3代目の副事務総長となります。

職 歴
ミギロ氏は2006年から2007年にかけ、タンザニア連合共和国の外務・国際協力大臣を務めました。同国で女性がこのポストに就任するのは、1961年の独立以来はじめてのことでした。それまでの5年間は地域開発・女性・子ども担当大臣の職にありました。

ミギロ氏は外相として、大湖地域の平和と安全、そして開発に向けたタンザニアの取り組みを先頭に立って進めました。大湖地域国際会議(International Conference of the Great Lakes Region)の閣僚理事会では議長を務め、大湖地域安全・安定・開発協定(Pact on Security, Stability and Development in the Great Lakes Region)の成立に貢献しています。

ミギロ氏はまた、南部アフリカ開発共同体(SADC)政治・防衛・安全保障協力機関閣僚委員会(Ministerial Committee of the Organ on Politics, Defense and Security Cooperation)の委員長を務めたほか、大湖地域の平和、安全および開発に関する国連安全保障理事会の公開討論でも議長を務めた経験があります。ミギロ氏はSADC機関の委員長として、選挙を含めたコンゴ民主共和国(DRC)の民主化プロセスに対するSADCの援助のほか、ザンビアやマダガスカルの国政選挙への支援についても調整の役割を果たしています。副事務総長任命当時は、レソト王国での国政選挙を控え、重要なSADC閣僚級3者会談の議長を務めていました。

ミギロ氏は政府に加わる以前、学界で活躍していました。ダルエスサラーム大学法学部では教職員として、上級講師にまで昇格しました。1992年から1994年にかけては憲法・行政法学科、1994年から1997年にかけては民法・刑法学科の学科長もそれぞれ務めました。内外の専門誌にも広く論文を寄稿しています。

さらに、ミギロ氏は1997年にタンザニア法制改革委員会、2000年には国連女性差別撤廃委員会の委員も務めています。

学 歴
ミギロ氏は1984年にダルエスサラーム大学で法学修士号を、1992年にドイツのコンスタンツ大学で法学博士号をそれぞれ取得しました。

横 顔
ミギロ氏は1956年7月9日、タンザニアのソンゲア生まれ。夫で教授のクレオファス・ミギロ氏との間に娘2人。英語のほかスワヒリ語とフランス語(基礎)、ドイツ語(基礎)も話します。


国連副事務総長の役割

副事務総長のポストは1997年末、総会が国連改革の一環として、事務局活動の管理を補佐し、活動やプログラムの整合性を確保する役割を担うものとして創設しました。その目的は、経済、社会分野での国連の存在感とリーダーシップを高めることにあります。

総会は事務総長室に不可欠な要素として、副事務総長ポストの設置を決定しました。その詳細は事務総長報告の補遺1と、1997年11月4日に事務総長が国連改革に関する総会の自由参加型非公式協議で行った発言で明らかにされました。これには「国連憲章に規定する事務総長の任務を害せず、かつ、現行の意思決定制度に基づく措置および提案」という表題がつけられています。事務総長から副事務総長に委譲された責任事項は、下記のとおりです。

(a) 事務総長による事務局活動の管理を補佐すること
(b) 事務総長不在時、および、事務総長が決定するその他の場合に、国連本部で事務総長の代理を務めること
(c) 事務総長による部門間および機関間の活動とプログラムの整合性確保を支援するとともに、開発政策と開発援助の主役としての国連を強化する一層の取り組みを含め、事務総長による国連の経済、社会分野における存在感とリーダーシップの強化を支援すること
(d) 事務総長の決定に応じ、会議、公務、式典その他の機会に事務総長の代理を務めること。
(e) 事務総長の判断に応じ、その他の役割を担うこと

初代の国連副事務総長はルイーズ・フレシェット氏でした。カナダ人のフレシェット氏はコフィー・アナン事務総長の任命を受け、1998年3月2日に副事務総長に就任し、2006年3月31日までその職を務めました。

2006年3月3日には、マーク・マロック・ブラウン氏が第2代副事務総長に任命されました。ブラウン氏は前任者ルイーズ・フレシェット氏の退任を受け、4月1日に副事務総長に就任し、2006年12月末までその職を務めました。