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「われら人民」21世紀の国連と人権

プレスリリース 99/223 1999年12月27日

コフィー・A.アナン

 20世紀も幕を閉じようとしている今、国連はこれまで以上に人々の暮らしの中で中心的な役割を果たしています。国連は、開発、平和維持、環境、医療などにおける活動を通して、世界の国々と共同体がよりよく、より自由で、より豊かな将来を築けるようにその手助けをしてきました。しかし、それにもまして私たちの活動の中核にあるのは、性別、民族、人種にかかわりなく、いかなる人もその人権を冒涜されたり無視されたりしてはならないという理念です。これは国連憲章と世界人権宣言に明文化されています。これこそ、私たちを支える最大の信条であり、かつ私たちの活動を推進させる最も強い原動力です。21世紀がまもなく始まります。個人の権利の尊重なくしてはいかなる国、いかなる共同体、いかなる社会も本当に自由になることはできません。

 この一年私は、国家の共同体となることの意義について人類の理解を深める努力を行ってきましたが、私は常に個人をその中心に据えてきました。そのことは開発を進めることであれ、また予防措置の重要性を強調し、組織的な著しい人権侵害を止めさせるため――ときには国境を越えて――介入することであれ、いずれにしても、私たちが何より重んじているのは個人です。それは、最も基本的な意味で、グローバル化と国際協力の力によって国家の主権が再定義されるようになっているのが大きな要因です。近年、国家は人民の公僕であって、その逆ではないことが広く理解されるようになりました。同時に、個人の主権、つまり国連憲章に記された通りのあらゆる個人の人権と基本的な自由は、私たち一人ひとりが自分の運命を決める権利をもっているのだという再認識によって強化されてきました。

 同時におこっているこのような進展は注目に値するものであり、多くの点で望ましいのですが、簡単な解釈や単純な結論を導くものではありません。それは、次のような問いに対して私たちに新たな考え方を求めています。世界中の余りにも多くの人々を巻き込む人道的な危機に国連はどう対処すべきなのか、困窮する人々を救うために国際社会はどのような手段を取るべきなのか、紛争のある面には積極的に介入しているのに、手を拱いていることを恥じざるを得ないほど日々死や苦しみを生み出している多くの危機に対して無関心であるように思われる問題にどう対応すればよいのか。

 こうした重大な疑問についてじっくりと考える必要性は、過去10年の出来事、特に現在コソボと東チモールで国際社会が直面している挑戦から生じました。シエラレオネからスーダン、アンゴラ、カンボジア、アフガニスタンにいたるまで、同情の言葉以上のもの、すなわち暴力の連鎖に終止符を打ち、繁栄への安全な道を歩み始めるための真の持続的なコミットメントを国際社会に求めているたくさんの人々がいるのです。

 ルワンダの集団殺害とスレブレニツァの大虐殺は、大量殺人に直面した私たちが「行動しなかった結果」といってもよいでしょう。他方、コソボ紛争は、国際社会の十分な協調を欠いたまま「行動した結果」について重大な疑問を投げかけました。

 それは、「人道的な介入」とよばれるもののジレンマをくっきりと浮かび上がらせました。国連の委任がないまま地域的な機構が取った行動の正当性と、深刻な人道上の結果を伴う組織的で著しい人権侵害を効果的に止めさせるという普遍的な責務とのジレンマです。コソボ紛争の場合、国際社会にとって等しく重要なこの2つの利益――普遍的な正当性と人権擁護の有効性――を統合できなかったことが悲劇でした。

 この事件によって、国連と国際社会全体が解決しなければならない来世紀の核心的課題が明らかになりました。それは、世界中のどこであろうと組織的で著しい人権の侵害が容認されてはならないという原則の下で2つの利益の統合をはかることです。

 国連憲章には、「共同の利益の場合を除くほかは武力を用いない」と宣言されています。しかし、共同の利益とは何でしょうか。誰がそれを規定するのでしょうか。それは誰の権限において誰が守るのでしょうか。そして介入にはどのような手段を用いるべきなのでしょうか。これらは新しい世紀を迎えようとしている私たちに突きつけられたたいへん重い問題です。明らかなのは、個人の権利こそが今、「共同の利益」の中心にあるのだということです。

 私たちは、組織的で著しい人権の侵害が起こっているときに世界がそれを傍観することはできないと学びました。また、世界中の人々からの持続的な支持を得るには、介入は正当かつ普遍的な原則に基づかなければならないということも学びました。一般市民を大量虐殺から守るための介入に好意的な国際規範が発展しつつあり、これは今後も国際社会にとって甚大な挑戦になるに違いありません。

 国家の主権と個人の主権に関するこうした認識の進展は、ときには不信や懐疑、あるいは敵意をもって迎えられることもあるでしょう。しかし、それは歓迎すべき進展です。なぜなら、私たちの認識や活動に様々な限界や欠陥があるとはいえ、苦しんでいる人々にいっそう多くの支援の手を差し伸べること、苦しみを終わらせるためにいっそうの活動をすることは、まさしくヒューマニティの証しだからです。それは来る世紀に希望の灯をともすひとつの兆しなのです。