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「善を導く力」:コフィー・アナン元事務総長の死を悼む国連

2018年08月22日

コフィー・アナン第7代国連事務総長(2003年、国連本部で記者団に向けて話すアナン氏)©UN Photo/Evan Schneider

国連は、コフィー・アナン元国連事務総長の死を悼んでいます。8月18日、アナン氏の公式ツイッターで発表された声明によると、ガーナの著名な外交官であったアナン氏は、短い闘病生活の後、安らかに息を引き取ったとのことです。80歳でした。

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第7代国連事務総長を務めたアナン氏は、国連職員から昇進し、そのままトップに上り詰めた初の事務総長でした。

アントニオ・グテーレス現事務総長は、アナン氏を「善を導く力」として、そして「平和と全人類の世界一の擁護者となったアフリカが誇る息子」として称えました。

グテーレス事務総長は声明の中で、「多くの人々と同様、私はコフィー・アナン氏を親友、そして良き指導者と呼べることに誇りを抱いています。事務総長在任中、私を信頼し、国連難民高等弁務官に選任していただいたことは、大きな名誉でした。私にとって、アナン氏はいつも助言を求めることができる人、そして知恵を授けてくれる人でした。また、そう考えるのが私だけではなかったことも知っています。アナン氏はどこでも、人々に対話の空間、問題解決の場所、よりよい世界への道を提供しました。この困難と混乱の時代に、アナン氏は国連憲章の価値を実現するための取り組みを決して諦めませんでした。アナン氏の遺産は、私たち全員を真の意味で鼓舞し続けることでしょう」と述べています。

コフィー・アナン氏は1938年4月8日、ガーナのクマシで生まれました。

そして、1997年1月から5年の任期を2期にわたり、国連事務総長を務めました。

アナン氏は1962年、ジュネーブにある世界保健機関(WHO)の行政・予算担当官として国連に加わり、予算や財務、平和維持の分野でシニアレベルのポストに昇進しました。

グテーレス事務総長は「コフィー・アナン氏は多くの意味で、国連そのものを体現しました。自力で昇進し、比類のない尊厳と決意をもって、国連という組織を新たな千年紀へと導いたのです」と指摘しました。

 

コフィー・アナンと国連

当初、ジュネーブに赴任したアナン氏はその後、エチオピア、エジプト、旧ユーゴスラビア、ニューヨーク本部などで国連の要職を歴任しました。

1990年のイラクのクウェート侵攻を受け、アナン氏は900人を超える国際職員の帰還と、欧米人の人質解放を促すという任務を与えられました。

その後も、人道援助物資購入の資金を調達するための石油売却に関し、イランと交渉する第1次国連チームの団長を務めました。

アナン氏は1997年1月の事務総長就任直前まで、国連平和維持活動(PKO)局長を務めていました。国連のフィールドにおける存在感がかつてない成長を遂げた時期にあたります。

事務総長としての最初の大がかりな取り組みは、国連改革に関する計画でしたが、この計画は1997年7月、加盟国に提示されました。

アナン氏は、その職権を用いて人権、法の支配、開発、そしてアフリカを擁護したほか、市民社会や民間セクター、その他のパートナーとの絆を作り上げることにより、国連を全世界の人々に近づけるよう努めました。

また、事務総長として、HIV/エイズに対処し、テロと闘うためのグローバルな行動も活性化しました。

2001年、アナン氏は国連とともにノーベル平和賞を受賞しました。

2006年12月、国連総会へのお別れの挨拶で、コフィー・アナン氏は「さわやかな風を受け、世界全体を見渡せるこの山」を離れる気持ちを表現しました。

そして、事務総長の仕事には困難や課題が多かったものの、時には「ワクワクするほどのやりがい」があったことを認めました。

アナン氏は「私の人生の次の段階では、この頑丈な岩にしがみついていた肩を休められることを楽しみにしていますが、私はきっと、この山を懐かしく思うことでしょう」と述べました。

しかし、アナン氏が休むことはありませんでした。2011年3月に始まったシリア紛争を受け、国連シリア担当特使の役割を引き受けたからです。

また、2016年には、少数民族ロヒンギャの人々が暮らすラカイン州の全州民の福祉を改善するため、ミャンマーが設置した諮問委員会の委員長も務めました。

母国のガーナでは、アナン氏の名を冠する国際平和維持訓練センターが設置され、2004年に活動を開始しています。

©UN Photo/Milton Grant

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原文(English)はこちらをご覧ください