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サム・ヌジョマ
(H. E. Mr. Sam Nujoma)
ミレニアム・サミット共同議長

プレスリリース 00/82 2000年09月01日

 サム・ヌジョマ氏は1990年2月、ナミビア共和国の初代大統領に選出され、現在はその3期目を務めている。ヌジョマ氏は自国の独立達成に果たした指導的な役割により、世界的に知られるようになった。

 1929年、当時の南西アフリカで生まれたヌジョマ氏は、両親の家畜の世話と農業の手伝いをしながら育った。同氏は後に、南アフリカ鉄道で働きながら、南アフリカのトランスアフリカ通信制大学で学んだ。

 1950年代後半、後のナミビア大統領は、数名の指導者とともに国連に対し請願を行い、南西アフリカを国連信託統治制度のもとに置くよう求めた。ヌジョマ氏は1959年、新しいカトゥトゥラ居住区に人々を強制移動させようとするアパルトヘイト政策に対する抵抗運動の組織に助力した。この運動により、12人の無実で武器を持たない人々が虐殺されたが、その後にヌジョマ氏は逮捕され、抵抗運動を組織した罪に問われた。同氏は1960年3月、国外に亡命した。

 その直後、ヌジョマ氏は国連に電報を送り、第4(非植民地化)委員会での口頭尋問を要請した。タンガニーカの郵便局を通じて承認の通知を受け取った同氏は1960年6月、米国に到着し、南アフリカによる南西アフリカの植民地支配終焉を求める請願を第4委員会に行った。

 1960年4月、ウィントフックで南西アフリカ人民機構(SWAPO)が結成されると、ヌジョマ氏は欠席のうちに、同機構の議長に選出された。ナミビア人は自ら亡命の道を選んでいるだけで、逮捕の恐れなく帰国することができるとの南アフリカの国際司法裁判所での主張に挑戦するため、ヌジョマ氏は1966年3月、SWAPOのヒフィケプニエ・ポハンバ事務局長とともに、チャーター機でウィントフックに到着した。ウィントフック空港に到着した2人は逮捕、投獄され、翌日にザンビアへ追放された。ヌジョマ氏は最初の武器をアルジェリアからザンビアへと密輸し、これがナミビア北西部に持ち込まれて1966年8月26日、武力解放闘争が始まった。ヌジョマ氏は1989年の解散まで、SWAPO軍の最高司令官を務めた。

 1971年、ヌジョマ氏は独立を求めるアフリカ国民運動指導者としてはじめて、国連安全保障理事会で演説を行った。同氏は1977年から1978年にかけ、SWAPOチームを率いて交渉に臨み、その結果、安全保障理事会決議435(1978)が採択された。9年後の1989年3月、同氏は南アフリカとの停戦合意に署名し、決議435の実施を達成した。

 ヌジョマ氏は1989年9月、亡命先から帰国し、英雄に相応しい歓迎を受けた。1990年3月21日には、新たに独立したナミビア共和国の初代大統領および国防軍最高司令官に就任した。ヌジョマ大統領は再選され、1995年3月21日から2期目を、さらに2000年3月21日からは3期目を務めている。

 自国を解放に導いた役割により、ヌジョマ大統領は国内的・国際的な多くの賞と名誉号を受けている。同氏は既婚で、息子3人、娘1人がいる。