目次 1.東ティモール・メディア・ミッション参加者リスト ......3 2.東ティモール・メディア・ミッションの日程 ......4   東ティモール・メディア・ミッション帰国報告会で使用した写真・スライド ......6 3.東ティモール・メディア・ミッション参加者帰国報告 ......17   挨拶国連広報センター所長高島肇久氏   参加者報告 ......18 4.東ティモール関連の新聞記事(2001年8月−9月) ......40 5.東ティモールの歴史 ......66 6.憲法制定議会選挙 ......52 7.国連東ティモール・ミッション ......58 8.国連東ティモール暫定行政機構 ......59 9.国連事務総長特別代表およびUNTAETの長の略歴 ......60 10.参考資料 ......61 ************************************************************ 1.東ティモール・メディア・ミッション   参加者リスト  長岡昇論説委員     朝日新聞社  山田道隆編集委員    共同通信社  千野境子論説・編集委員 産経新聞社  奥村幸広論説委員    日本経済新聞社  嶋津八生解説委員    日本放送協会(NHK)  榊直樹論説委員     毎日新聞社  谷川平夫論説委員    読売新聞社  妹尾靖子広報官     国際連合広報センター 2.東ティモール・メディア・ミッションの日程 2001年8月20日−22日 8月20日月曜日   12:30  ディリ(Dili)到着,UNTAETの出向え       「トロピカル」ホテルにチェックイン   13:30  昼食   15:00  バーバラ・ルイス氏(UNTAETのスポークスパーソン)から        UNTAET HQの会議室にてブリーフィングを受ける   16:30  現地メディアとの意見交換会と会見   18:00  松浦氏(政府連絡事務所代表)およびJICA代表と会談   19:30  鈴木信一氏(事務総長特別代表特別顧問)と夕食 8月21日火曜日    9:30  Peacekeeping HQにて、国連軍事要員からブリーフィングを受ける   10:00  重大犯罪パネルをディリ地方裁判所で取材   12:00  Independent Electoral Commission(IEC)のレイ・ケネディ氏と会見   12:30  UNDP代表と昼食    午後  コモロ市場などを見学   17:00  サンタクルス共同墓地(Santa Cruz Cemetery)を訪問        1991年サンタクルス虐殺の生存者であるユースリーダーに案内してもらう 8月22日水曜日   午前中  OISCA(NGO)のリト氏の案内で破壊された        リキシヤ(Liquica)農業研修センターを見学   14:30  ディリ中央病院(Dili Central Hospital)を訪問   16:30  ラモス・ホルタ氏(外務担当相およびノーベル平和賞受賞者)        と会談UNTAET広報センター見学   19:30  ウマ・ムタック(Uma Mutuk)にて政府、NGO、UNTAET        を含む日本人関係者との懇談会 8月23日木曜日   11:00  Police Academy見学        Jose Luis da Costa e Sousa氏(文民警察長官)から説明を受ける   12:00  Police Academy主催の昼食会   15:00  事務総長特別代表、UNTAETの長のセルジオ=ビエイラ・デメロ氏への取材   17:00  メティナロ(Metinaro)の東ティモール軍訓練センター       (East Timor Defence Force Training Centre)に出発、        Brigadier General Taur Matan Ruaと会見   18:30  メティナロからディリへ移動18:30 8月24日金曜日    7:00  バウカウ(Baucau)へ車にて出発    9:30  バウカウに到着        FAOの人間安全保障基金プロジェクトを視察   11:30  ラウテム(Lautem)へ車で移動   14:00  ロスパロス(Lospalos)に到着        韓国部隊を見学        AFMET(NGO)の保健・衛生プロジェクトを見学   17:00   ヘリコプターにてディリへ戻る17:00 8月25日土曜日   午前中  ディリ内の選挙キャンペーンを取材   12:00  ディリを離れ、日本へ 東ティモール・メディア・ミッション写真 ・写真が入る   コーヒー豆 ・写真が入る   コーヒーの皮むき作業 ・写真が入る   フレテリンの集会場 ・写真が入る   選挙キャンペーン中の討論会 ・写真が入る   ラモス・ホルタ氏 ・写真が入る   セルジオ=ビエイラ・デメロ事務総長特別代表 ・写真が入る   バウカウ飛行場を警備するPKF ・写真が入る   韓国軍の本部にて ・写真が入る   アドラ・ジャパン(NGO)活動風景(市場にて) ・写真が入る   市場で働く女性たち 東ティモール・メディア・ミッションスライド ・スライド1 ・スライド2 ・スライド3 ・スライド4 ・スライド5 ・スライド6 ・スライド7 ・スライド8 ・スライド9 ・スライド10 ・スライド11 ・スライド12 ・スライド13 ・スライド14 ・スライド15 ・スライド16 ・スライド17 ・スライド18 東ティモール・メディア・ミッション 参加者帰国報告会 (2001年9月27日) UNハウス5Fエリザベス・ローズ会議場 挨拶 ●国連広報センター所長高島肇久氏  国連広報センターの高島と申します。本日は東ティモール・メディア・ミッションの帰国報告会にお集まりいただきまして誠にありがとうございます。ミッションの皆様には、東ティモールで制憲議会の選挙が実施される直前の8月19日から26日にかけて東ティモールに行っていただき、現地の情勢を分刻みのハードなスケジュールのなかで見ていただきました。関係者とたくさんのインタビューをして帰国され、そしてたくさんの論説・解説記事を書いて下さっています。今日は、その後の東ティモール情勢が比較的落ち着き、選挙もうまく行ったという報告がなされている中でミッションに参加して下さった全部で7社、7人の論説委員・解説委員の方々から現地でご覧になって、印象に残ったこと、また今、東ティモール情勢についてお考えのことを報告していただきながら、今後のことを考えてみたいと思っております。  9月11日の同時多発テロ以降、国際情勢が大変緊迫しています。この建物自体もニューヨークの国連本部から警戒を厳重にするようにという指示が来ており、皆様には事前にお名前を出していただくなど、ご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。まず、会場にお見えになっていらっしゃる方々からご報告をいただいて、そして会場からの質問などがありましたら、それぞれ質問をしていただくことにいたします。また、日本の選挙監視団の団長として現地に赴かれました、JICAの高橋さんが後ほどここにお見えになることになっておりますので、このミッションが帰国した後実際に行なわれた選挙、そして選挙後の情勢などについてもご報告をいただけたらと思っています。まず冒頭でメディア・ミッションに同行いたしました私ども国連広報センターの広報官をしております妹尾靖子から、ミッションの経過、特にどんな日程で何をしてきたかについてご報告を申し上げたいと思います。 ●国連広報センター広報官 妹尾靖子氏  東ティモールへのメディア・ミッションは、私ども国連広報センターが現在の高島所長となりまして第2回目のものです。昨年秋にコソボの地方選挙の時にも、直前にこのようなメディア・ミッションを行い、その際にも同じように論説・解説委員に参加していただきました。今回は憲法制定議会選挙の前に1週間程度で参りました。(P.11,スライド1)  何を主に見てきたかと申しますと、国連の暫定統治、平和維持活動、人間の安全保障――これは難民救済など軍事面に限らず広い意味での安全保障――を見てまいりました。そして先ほど申し上げました憲法制定議会選挙の準備です。また日本がどのように東ティモールに貢献できるかということも考えました。(P.11,スライド2)次に、東ティモールの簡単な地理的位置、人々、1999年8月の直接投票とその後の混乱、UNTAETの設置についてご説明します。(P.11,スライド3)  まず東ティモールとはどういうところか、今回ご参加の方はもう知っていらっしゃると思いますが、ティモール島のほぼ東半分を占め、長野県くらいの大きさになります。右側の地図(P.12,スライド4)の線で縞になっている部分が東ティモールです。私たちはバリからトランジットで東ティモールに入りました。  東ティモールの歴史(P.12,スライド5)を振り返りますと、16世紀にポルトガルの植民地となり、その後450年くらい植民地でした。その後、ポルトガルの政権交代を受けて、1975年に独立派が独立を宣言致しました。しかしその翌年インドネシアが東ティモールを併合し、その後24年間にわたって支配する状態が続いておりました。スハルト政権の崩壊後、1996年6月にUNAMETが発足し、その年の8月に直接投票で住民の78%以上が独立に賛成しました。しかし直後に安定した状態とはならず、暴力行為が増して東ティモールは混乱状態に陥りました。東ティモールの人々とはどのような人々なのでしょうか。(P.12,スライド6)まず人口が75万人くらいおり、そのほとんどがカトリックです。言語は私も行ってわかったのですけれどもインドネシア語、それとテトゥン語などの現地の方言です。それとポルトガル語。ポルトガル語を話す人はポルトガルの植民地時代の教育を受けているご年配の方が多いわけです。現地のテトゥン語というのはたとえばディリから離れた場所では通じなく、東ティモールは言語的にも本当に多様性に富む所だなと実感しました。    1999年夏の混乱を乗り越えて、今、東ティモールの人たちは憲法制定議会選挙に臨み、東ティモール独立へ向けて動いています。1999年8月の直接投票直後にはその結果に反発するインドネシア統合派が東ティモール全域で組織的な破壊行為を行ない、それが暴力行為を増す原因となったわけです。その時多くの住民が西ティモールなどに避難しました。最近の情報では年内に約4万人が西ティモールから帰還する予定だということで、避難していた人たちも徐々に戻ってきている状態です。直接投票後の混乱の直後1999年9月15日に、国連安保理は多国籍軍を発足させて治安の維持を東ティモール・メディア・ミッション参加者帰国報告会図りました。私たちがお世話になり、見てきたUNTAETという国連東ティモール暫定行政機構ですけれども、それが現在では多国籍軍からの治安維持の任務を引き継いで全面的に暫定統治を行なっております。UNTAETは簡単に申しますと立法・行政・司法に関わるすべての権限を有しています。今回行なわれた選挙も、文民警察・人道支援・統治行政・軍事部門・自治のための能力育成もUNTAETに含まれるわけです。(P.13,スライド7)  つぎは私たちがミッション後半にインタビューをしたセルジオ=ビエイラ・デメロというUNTAETの長、そして国連事務総長の東ティモールでの特別代表の写真です。(P.13,スライド8)ディリで訪問したディリ病院などUNTAET本部ビル以外にもUNTAET関連ビルがあちこちにあります。先ほどから申し上げています憲法制定議会選挙が8月30日に行われ、憲法の起草と採択を行いました。(P.13,スライド9)UNTAETが直接やるというよりも独立選挙委員会が選挙の組織実施を行ない、選挙権を持つ人たちは17歳以上、先ほど申し上げた人口、75万人のうちの40万ということになります。選挙の構成は16政党が競う厳しい選挙となりまして、議員の定数は計88、そのうち13は小選挙区からで、比例代表が75ということで88になります。選挙区は比例を合わせて1,138名が登録をしまして、そのうちなんと27%が女性。国連も女性の政治への参加を推進しており、デメロ事務総長特別代表もこの点を力説していました。右側のが選挙の投票用紙です。これはカラーでできており、顔写真と政党のロゴもプリントされて字が読めない人にもわかりやすくなっていました。  これは私たちが見てきました選挙のキャンペーンですけれども(P.14,スライド10)、あらゆるところ、特に市場などで、UNTAETによる公正な選挙の呼びかけがポスターで示されていました。ちなみに日本からの援助の一環として、ポスターなどの作成のために日本人デザイナーがいらしていました。都合がつかず会えなかったのですが、そういう点でも日本の人的貢献がなされていました。選挙討論会や、各党の選挙キャンペーンも繰り広げられており、たまたま私たちが東ティモールを出発して帰るという日が一番ピークに達したようです。しかし、選挙当日に東ティモールに滞在できなかったのが残念でした。選挙結果は皆様メディアでご存知だと思いますが、90%という非常に高い投票率でした。24年間インドネシアとの闘争を続けてきたフレテリンという東ティモール独立革命戦線が予想通り第一党になりました。しかし単独で憲法を採択できる60議席には届きませんでした。その後、第二次暫定内閣が発足して、選挙までの第一次の場合は国際職員もその中に入っていたのですが、今回はティモール人、現地人のみで構成されています。88議席の内訳で、フレテリンが第一党になりました。(P.14,スライド11)  私たちは韓国のPKF部隊が展開されている東の方にも参りました。(P.14,スライド12)その際、行きはミニバスで行ったのですが、帰りはヘリコプターで戻りました。これはチリのヘリコプターでしたが、非常に老朽化しており、いささか不安を感じましたが無事にディリに戻って来ることができました。韓国部隊ですが、私どもが訪問した際、非常に歓迎してくださって「是非日本も参加してください、私たちがABCを教えましょう」などと言っていました。東ティモールのラオテム地域の治安と安全を守っているだけではなく、住民との対話やいろいろな娯楽も現地の人に提供しながら活発にやっていらっしゃるようでした。(P.15,スライド13)  これは東ティモールも国防軍を持つということになり、その訓練校を訪れたときの写真です。(P.15,スライド14)いま兵士として訓練を受けている人は独立抵抗運動では東ティモール民族解放軍の元兵士達です。訓練・財源ともにオーストラリア、ニュージーランド、アメリカ等の支援に頼りながら行われていました。またこのように元兵士を雇用するというのは、今の社会状況から大変重要な雇用対策にもなっているということでした。UNTAETの部門にもある警察ですけれども、警察官の養成所も訪れまして、若い男女が一生懸命勉強している姿を見学させていただきました。  それから人間の安全保障という観点からFAO(国連食糧農業機関)が実施しているトウモロコシとコメの生産プロジェクトを見学しました。このプロジェクトは日本政府の支援で国連の中に設置されている「人間の安全保障基金」から支援を受けて実施されているということで、現在は第1段階が終わり第2段階に入るという説明をFAOの代表から受けました。(P.15,スライド15)このほかにも様々な国連諸機関が活躍していましたが、何しろ短い滞在期間でしたのですべて見ることはできませんでしたが、代表的なものは見ることができたと思います。  次に日本の援助ですが、ご存知のように日本は最大の援助国で、開発復興支援のみならず選挙支援も行なっております。(P.16,スライド16)それらの支援はJICAや様々な日本のNGOを通じて行われており、住民のニーズに合ったものになっているという感じを受けました。また選挙監視要員の派遣も行ない、これは後ほど詳しく高橋様の方から報告を聞きたいと思います。ディリの港の復旧の工事も日本がしましたし、またUNTAETの広報部にうかがった時に広報機材の提供も日本がしているということでした。NGOの活躍が非常に良く見えて、緊急援助、コーヒー栽培を含む農業開発が実施されています。(P.16,スライド17)また、保健・医療関係では、写真にある日本人女性たちがAFMETというNGOでヘルスセンターを運営し、コミュニティに根ざした健康教育を行っていました。非常にコミュニケーションが難しい所で頑張っていらっしゃる姿を拝見させていただきました。また、OISCA(NGO)のリトさんという方にインドネシア国軍とミリシアに破壊された農業訓練校を見せてもらいました。ここが今後復興されることを願う、というメッセージを受けました。またアドラ・ジャパン(NGO)が市場の復興や商人のトレーニングをしており、これはNHKの嶋津さんが取材されましたので後ほどご覧になると思います。最後になりましたが「今後の独立と国造りに向けて」ということで(P.16,スライド18)、これは私から申し上げるよりもメディア・ミッションに参加された論説委員・解説委員の方々からお聞きしたいと存じます。組閣をし、新憲法の制定をした後、今度は大統領を選ぶという作業が来年の春になるらしいです。大統領になるであろうと言われている独立運動の指導者シャナナ・グスマン氏、彼とは直接インタビューできなかったのですが帰る日に見学した選挙キャンペーンの中でチラリとお目にかかりました。こちらはラモス・ホルタ氏です。この方にはじっくりお話を聞くことができました。今後の日本との関係、国際社会の中で東ティモールはどういう国になるべきかということも伺いました。簡単ですが、このような感じで私たちは東ティモールへ行って参りました。詳しいことはそれぞれ参加されたミッションのメンバーに伺いたいと思います。どうもありがとうございました。 ●朝日新聞社論説委員 長岡昇氏  初めて東ティモールを訪れたのは、ジャカルタに赴任して間もない1999年の5月だった。インドネシア、ポルトガル両国政府は国連の仲介で、8月に東ティモール独立の是非を問う住民投票を実施することで合意しており、すでにメディアには東ティモールをめぐる情報があふれていた。「とにかく早く現地をみておかなければ」という気持ちで空路、バリ島経由でディリに向かった。  「なんて痩せた大地だろう」。空からティモール島を見てまず感じたのは、貧しさだった。乾期ということもあったのだろうが、島の木々は立ち枯れたようになっており、赤茶けた土があちこちからのぞいていた。人口は80万人余り。農業も振るわない。資源があるわけでもない。「独立して、いったいどうやって暮らしていくのだろうか」と正直、思った。ディリに降り立って何日か取材するうちに、住民のおびえ方が尋常でないことに気づいた。インドネシア国軍が組織した独立反対派の民兵集団が銃や山刀を持って街を闊歩しており、かなり緊張した状況にあったことは確かだが、それにしても、「おびえすぎではないか」と感じた。銃声が一発鳴り響いただけで、住民は一斉に音がした方を向き、ひどくおどおどした表情を見せる。以前取材したアフガニスタンの人々は、実に精悍な表情をしていた。つい、それと比べてしまう。心の中で「念願の独立を実現できる日が近づいているのに、なんでそんなにおどおどしているんだ。けちな脅しにびくびくすることはないだろう。空威張りをしてはいるが、民兵どもにできることなど、たかが知れているではないか」と思っていた。世界中から報道陣が押し寄せ、リアルタイムで独立への歩みを伝えている。インドネシア政府や国軍にしても、衆人環視の中で、民兵集団が暴れ回るのを許すわけがない、と思い込んでいた。  浅はかだった、と言うしかない。東ティモールの人たちはインドネシアの闇、というよりスハルト独裁体制の闇の深さを身をもって知っており、これから何が起こるかを私などよりもはるかに鋭く感じていたのだろう。だからこそおびえ、恐れていたのだ、と今にして思う。民兵集団とそれを支えるインドネシア国軍は、独立を決めた住民投票の後、世界のメディアが見つめていることなどお構いなしに憎悪と憤怒を爆発させ、住民を殺し、街を焼き尽くしてしまった。取材しながら、何でこんなことができるのか理解できず、かなりとんちんかんな見通し記事を書くはめになってしまった。  インドネシアの闇の深さについては、その後、1984年のタンジュン・プリオク事件というイスラム教徒に対する弾圧事件を調べたりする中で、ますます空恐ろしさを感じるようになっていった。事件の真相は今なお不明だが、私は様々な材料から、この事件はインドネシア国軍の情報機関がイスラム指導者を意図的に挑発(モスクに汚物を投げ込むなど)して抗議デモを起こさせ、それを機に指導者たちを大量殺害した事件である、と確信するようになった。軍隊が自国の国民を道具のようにもてあそび、殺害する。それどころか、分離独立が起きているスマトラ島北部のアチェや宗教抗争が続くマルク諸島では、紛争を複雑にし、あおるために身内のはずの兵士まで殺している疑いが濃厚である。その実態を深く知るようになるほどに、寒気がするようなおぞましさを感じるようになっていった。東ティモールの人々は、そのおぞましさに4半世紀も身をさらさなければならなかったのであり、おびえるだけの十分の理由があったのだった。  数えてみると、今回の国連のメディア・ミッションへの参加は、7回目の東ティモール訪問だった。99年の時と決定的に違うのは、住民の表情だった。みんな、穏やかで落ち着いた表情をしていた。「ああ、この島の人たちは元々はこういう表情をしているんだなあ」としみじみ感じた。物は不足しているのかもしれないが、何か満ち足りたような印象を受ける顔が多かった。こういう、いい表情をした人たちを、あんなおどおどした表情の集団へと変えてしまったという一点だけでも、24年に及ぶインドネシアの統治がいかにひどいものだったかを十二分に物語っている、と言えるのではないか。メディア・ミッションの取材では、現地で多彩なアレンジをしていただき、ありがたいと感じた。それと同時に、今までの取材では行きたくても余裕がなくて行けなかった東部のロスパロスにまで足を伸ばせたことがうれしかった。  国連の平和維持活動の一翼を担ってここに駐屯している韓国軍部隊の歓待ぶりと韓国料理のおいしさには、心底ぐっときた。日本のNGO「AFMET」の女性3人がこの東端の地で頑張っている姿にも、頭が下がる思いだった。少しでも応援したいと考え、帰国後、彼女らが「たまには読みたい」と言っていた日本の雑誌や新聞を時折、郵送している。ささやかな応援だが、国連のメディア・ミッションでお世話になった恩返しを、彼女たちを応援することで返したい、との思いもある。何よりの収穫は、自分がいかに東ティモールのことを知らないかを、また新鮮な形で知らされたことだ。ロスパロスで使われている言葉が東ティモールの主要言語とされるテトゥン語と違うとは聞いていたが、それが「ファタルク語」という言語で、テトゥン語とは系統も違うなどということは、やはり現地に行ってみないとなかなか確認できないものだ。ティモール島は本当に小さな島だ。けれども、そこに生きる人たちから汲み取れることは無限とも思えるほど大きい。(長岡氏は急用で報告会に出席されなかったため、後日原稿を送付していただきました。) ●共同通信社編集委員 山田道隆氏  共同通信の山田です。今回はおよそ1週間のメディア・ミッションに参加させていただきまして、誠にありがとうございました。私は元々特派員に出たのがジャカルタだったものですから、東ティモールには特に関心がございまして、ちょうどシドニーの駐在をしている時に東ティモール問題にぶつかりました。2年前の9月、多国籍軍、これはオーストラリア軍が中心になって東ティモール東ティモール・メディア・ミッション参加者帰国報告会に入ったわけですが、その多国籍軍と一緒に9月20日にディリに入りました。それ以降、およそ2年間東ティモールの問題と関わってきております。今回メディア・ミッションでしばらくぶりにディリに入らせてもらいましたが、もっとも印象深かったのは、まず人がたくさんディリに戻ってきていると同時に、彼らの表情が2年前にディリに入ったときよりもずっと柔和になっていました。これは24〜5年およそ4半世紀のインドネシアの統治時代、それから妹尾さんの報告にもございましたように、直接住民選挙後の混乱、その厳しい時間を過ごしてきた人々の表情からすると、2年後のおよそ1ヶ月前の住民の表情というのは極めて穏やかといいますか、生活は当然厳しいわけですけれども、気持の上で何か平穏なものが彼らの中に宿ってきつつあるというのがとても印象に残りました。今妹尾さんがご報告されましたけれども、これから東ティモールはまさに国造りに向けて、恐らく来年の前半、4月くらいに独立に向けて具体的な歩みをはじめ、一番その中で求められるのが求心力、国をこれから作っていこうというエネルギーだと思います。そのエネルギーの中心になるのは、どうしても今紹介にもありました独立運動をずっと引き続き指導してきたシャナナ・グスマンという指導者に落ち着くと思います。ちょうど我々が8月25日、ディリを出るときの集会で、我々が出た後にシャナナ・グスマンが初代大統領の選挙に出馬するという意志表明をしました。その意志表明通りおそらく来年はじめ頃になると思いますが、大統領選挙が行なわれて彼が初代大統領に就任するのは間違いないと思います。ただ彼が大統領に就任したからといって、心がひとつになる、あるいは政治が彼を中心にして動くとは限りません。  選挙の結果でもおわかりのようにフレテリンが55議席をとっています。このフレテリンの組織内で、中心になっている人たちは、ほとんどの人達が24年間のインドネシアの統治時代を経験していない人が多いわけです。1974〜5年にフレテリンができ、インドネシア統治が始まったときに東ティモールから出た人、ポルトガルなり、アンゴラ、あるいはモザンビークで生活をしてきた人達が帰ってきて、現在フレテリンの中核を担っています。そこで心配されるのが、フレテリンの幹部の人達とシャナナ・グスマンとの関係です。ずいぶんと言われていますけれども、グスマンが考えている国造りと、フレテリンが目指す国造り。具体的に言いますと大統領の権限をどの程度に抑えるか、あるいは大統領の権限をどの程度まで広げるか、その確執が現在制憲議会の場で行なわれてくると思います。これからおよそ3ヶ月間、12月15日までにあたらしい憲法づくりに励むわけですが、その中で大統領の権限をどうしていくのか、大統領の力をある程度認め裁量権も強めて前面に立てるような制度でもって国造りを始めていくのか、あるいは大統領というのをポルトガル的なかたちにして、ある程度祭り上げるといいますか、象徴的なものにして政治の方は議会、あるいは政党が進めて行くのか、この辺の葛藤、闘いが3ヶ月間憲法の規定の討議で行なわれていくと思います。  もうひとつ憲法とは別に私が関心を持っているのが住民の和解です。1999年8月前後に大変な混乱、騒乱が起きたわけですけれども、インドネシアの併合を主張する民兵の組織と、一緒にやっていたインドネシア国軍、これと犠牲になった一般の人達との和解ですね、これをどう進めるか。実数はわかりませんけれども、依然として西ティモールの領域内には8〜10万人の避難民がいるといわれています。この人達のほとんどは東ティモールの方に戻りたいと思っているのでしょうけれども、なかなか民兵それからインドネシア政府の思惑もありましてすぐには帰れないようです。ただ今回の制憲議会選挙が終わり、今月中旬にはシャナナ・グスマンも境界付近に行きました。東ティモールには約1,400人ほどの避難民がすでに戻ってきていますので、これから西ティモール側にいる避難民も戻ってくると思います。その場合に東ティモール側にとどまった人達が彼らをどういうふうに受け入れるのか、初めにも話ましたけれども彼らを入れたエネルギーを国造りにどう結び付けて行くのか。それとともに大虐殺といった騒乱の後始末を法廷で行なうのか、それとも何らかの話し合いで結論を出していくのか、どう結び付けていくのか、その辺も多いに関心があるところです。  独立の場合には経済的な面や、あるいは社会情勢の安定化というのも必要でしょうけれども、外交の面でやはり地続きのインドネシアとの外交的な関係の維持というのも必要となってくると思います。新しいメガワティ大統領になりまして、対東ティモール外交はどうなるのか、あるいは東ティモールからの対インドネシア外交はどうなるのか、この辺も新しい国ができた後大いに注目して行くべき所だと思っています。いずれにしましても21世紀に最初に独立する国が東ティモールだと思いますので今後もよく成り行きを見守って行きたいと思います。どうもありがとうございました。 ●産経新聞社論説・編集委員 千野境子氏  皆様こんにちは。産経新聞の千野と申します。ここにお見えの方々は恐らく東ティモール問題に関してとても関心があるか、あるいは現地でのご経験のある方が大半だと思いますが、私自身は今回初めて東ティモールを訪れました。したがって素人的な感想になるかもしれませんが、なるべく直に体験してきたエピソードを中心にお話させていただこうと思います。実は私は96年から98年までシンガポールを拠点にして東南アジアを取材していました。それなのになぜ東ティモールに行ったことがなかったかと言えば、まさにそれこそインドネシアの状況と関連するわけです。そもそもインドネシアへはシンガポールから行くこと自体が大変でした。つまりスハルト体制下では新聞記者の取材ビザがなかなか下りず、取材目的を厳しく問われる。インドネシアにとって都合のよい話がよくて、東ティモールなどもってのほかというわけです。今回のミッションはその意味で過去のインドネシア統治を再考するなど私にとって大変に貴重な機会で、欲を言えばもう少し忙しくなければよかったですけれど。  いまお話しにもあった、人々の表情が落ち着いてきたということと関連しますけれど、私は初めてですからもちろん前との比較はできないのですが、やはり穏やかな印象を受けました。同時に新しい国にとって大切な要素とは、まず人間であるということを改めて感じました。先ほど妹尾さんが紹介された映像の終わりの方で登場したNGOのリトさん(参照:P.16,スライド17)という方のことですが、実は彼に会うことは当初の私たちのスケジュールにはなかったのです。ところがリトさんの方から私たちの方にやって来て、大変熱心に彼が取り組んでいる農業について話しをされ、その成り行きから「実際に行って見てみようではないか」ということになって、ミッションの中の有志がリキサという東ティモールの西の方の町に出掛けたのです。そしてミリシアに破壊された建物の跡を目の当たりにし、また彼が考えている再建の願望などについて、リキサへの長い道のりの往復の車の中も含めていろいろとお話を聞くことができました。何と言っても大事なことは東ティモールの自立です。そういう意味で彼のような人があと何人かいたら、人口が75万人ほどの小さな国ですから、かなりのことができるのではないかと思わせるのに十分な印象を受けました。  このように国造りには人が大切であるということが第一。ついで国連PKOの問題に話を移します。私自身はUNTAETのほかに過去カンボジアのUNTAC(国連暫定統治機構)、ボスニアのUNPROFOR(国連防護軍)と3つのPKOを取材しました。これらを通して感じることは、世界中に何百と紛争がある中で、PKOを作ってその地に入って行くということは、紛争地の人々にとってある意味でラッキーな部分があるということ。東ティモールよりもさらに悲惨な状況でありながら、しかしそれが、例えば報道されないがために忘れられている紛争が世界中にはたくさんある。東ティモールの人々は不幸中の幸いであったといってもあながち間違いではないと思います。しかし他方、PKOが入ることによって、当事国の人々、民族が生きている彼らの独自の歴史や持ち時間が、果たしてPKOとうまく調和するのか、PKOが先走ってしまうことはないだろうかという問題がある。せっかくのPKOが効果を発揮できないという状況も不幸にして生まれる。一つは受け入れた人々に、東ティモールでいえば国造りの意志というものがあり、なおかつそれがうまく発揮されることであろうと思います。UNTACのカンボジアでも果たして大丈夫だろうかという不安、心もとなさを感じましたが、率直に言って東ティモールでも同様な思いを抱きました。しかし先ほど述べたように民族には固有の歴史、持ち時間があり、私はあくまで日本人として生きてきた歴史・時間の中でそのように判断を下しているのであり、国造りは何よりも東ティモールの人々の総意、彼らの納得する形で進められるべきもので、そのために国連とも十分に意志疎通を図らなければならない。市場などで人々に選挙についてインタビューすると、一人一人はシャイな人が多いけれど、そしてインドネシア体制下ではお仕着せの民主主義しか経験できなかったのに、基本的な有権者意識はちゃんとあって、こういう言い方は失礼かもしれませんが、私は感銘を受けました。訪れたことで、ですから今後の発展に一段と関心が芽生えたことは事実です。  第三は日本との関連です。先ほどご覧になったように、私たちはロスパロスという東ティモールの一番東端に駐屯する韓国の部隊を訪れました。これはもちろん冗談ですが、この間の日韓関係の緊張から「私たち行ったらリベンジされるんじゃないの」と話していたのですが、とんでもない、 ・写真が入る韓国軍の歓迎 ・写真が入るラオテム県ロスパロスの韓国PKFに行くトラックの中 私たちの車が近づくと、ドラの音が聞こえてきて、「なんだなんだ」と眺めると、歓迎のブラスバンドでした。そして部隊長らのあいさつも「どうして日本は来ないのか。東ティモールに来るのを歓迎する」「一緒にやろう」と大変前向きなものでした。私自身はロスパロスへ行くまで、途中まで出迎えに来てくれたUNTAETの韓国人女性の車に同席したのですが、「どうして日本は来ないのか。東ティモールのPKOはもっとアジアの人々が前面に立ってやった方がよいのだ」と半ばお説教されてしまいました。3つのPKOの取材で共通することは、日本の存在感が足りない、もっと積極的に関わってほしいということですね。それは日本の部隊はとても優秀であるということと背中合わせでもあると思います。またNGOにしても、AFMETのプライマリーケアをやっている20代、30代の若い日本女性の方々が、中にはマラリアにかかりながらも実に意欲的に取り組んでいました。  最後に後の方が触れるかもしれませんが、実は私たちがUNTAETや東ティモールの人々に会って、議論がもっとも白熱したのが言葉の問題です。東ティモールの公用語を将来何にするか。一応ポルトガル語のようですが「いや違うのではないか。世界の流れ、近隣諸国などとの関係を考えると英語で行くべきだ」とか私たちが主張すると、独立運動を戦ってきた東ティモール人は「いややっぱりポルトガル語だ」と反論したり、議論はつきませんでした。若い人々には英語派が多い印象でした。まあ私は東ティモールが英語という現実的で賢明な選択をしてほしいと望んでいるのですが。 ●日本経済新聞社論説委員 奥村幸広氏  みなさんこんにちは。日本経済新聞の奥村と申します。勤務先が経済新聞ということで、私の関心は果たして東ティモールは独立後に本当に自立ができるかということにありました。政治的独立とは別に経済的な独立は可能なのかという視点が柱としてありました。  今まで各スピーカーの方がおっしゃいましたように、東ティモールの方々の表情は落ち着き、インドネシア軍や民兵が破壊した家の復旧工事も始まり、首都ディリの中心部では生活必需品、さらにはファッション衣料の店などが開店するなど、日本で抱いていた印象とは異なって多少明るい雰囲気を感じました。東ティモールは一応落ち着きを取り戻し、精神的に独立で足並みをそろえ、政治的な独立のプロセスに入っています。ただ、懸念されるのは経済的な独立ができるかどうかだろうと思います。この点では、やはり相当難しい問題があるだろうというのが私の正直な感想です。  一つはご承知の通り産業基盤が脆弱で、輸送網、電力不足、それに外部とのリンケージに欠かせない航空、情報網不足など、東ティモールが相当厳しい状況に置かれているのは間違いないだろうと思います。 ただ、米ドルを公用通貨として採用したように、東ティモールとしてグローバライゼ−ションの波に遅れないよう外とのリンケージを積極的に進めようとの意識はみられます。ただ、先ほど千野さんからご紹介があったように周辺諸国の共通言語が英語という環境の下で、ポルトガル語を公用語として採用した場合のメリット、デメリットをどう考えるべきかという問題があります。一方でドルを採用し、公用言語としてポルトガル語を採用する方針のようですが、経済の国際化が進んでいる今の状況を考えると、一本筋が通っていないという気持ちをもったことも事実です。この点に、東ティモールの指導層の考え方が分からない部分があります。  それと経済発展というとどうしても人の問題が欠かせません。独立を決めた住民投票後の争乱、それより以前のインドネシア軍の侵攻により、相当多くの人たちがオーストラリアや欧米に逃れました。欧米などで相当の知識を身につけたそういった方々が、東ティモールに帰還するのかということも経済的自立の行方に影響を与えると思われます。移住先の生活水準や給与などを考えると、これもなかなか難しいという気がします。それと、最も大きな課題は今後の発展の柱になりそうな潜在的な有望産業がなかなか見いだせないという点です。敢えて言えば、労働人口の8割以上が従事しているという農業が基幹産業ということでしょう。しかし、その農業も20年以上にわたるインドネシア統治時代の補助行政の弊害で、農民の方にコスト意識が非常に少ないと言われています。国連食糧計画(FAO)の方に聞いたところでは、農産品を輸出商品へと育成するのは非常に難しいとお聞きしました。コストに注意を払わない長年のインドネシア統治スタイルに慣れきった意識をどう変えていくのか、多くの人が指摘する経済的自立への課題です。  暗い点ばかり挙げましたが、良い点ももちろんあります。西ティモール(インドネシア領)との関係改善が図れるかという問題はありますが、例えば独立直後のアフリカ諸国と比べて治安上の問題が少ないことは心強い点です。民族紛争が起きて、内戦が起きるような状況をすでに脱したのは間違いない。人々の気持ちにも前向きな明るさを感じます。要は独立時に発足する政府がどういう経済発展の青写真を描くのか、それと同時に日本も含めた国際社会がどのような支援をしていくのかが、ポイントになるだろうと思います。それと、隣国のインドネシア、オーストラリアとの関係、特に経済的な連携をどう深めるかも重要な要素になるでしょう。東ティモールの人口は約80万人しかいません。市場規模をみると外国企業の進出は多くは期待できない。外部とのリンケージでこの問題を解決していく努力が必要となります。  また、人口規模を考えると独立後の行政機構も問題です。行政の規模を大きくすると、公務員比率が極端に高くなる危険が大きい。自主財源がなかなか見いだせない東ティモールで公務員比率を高くすると、国家運営が軌道に乗らなくなってしまう。自主財源とどうバランスをとって国家形態を築いていくのか。その中で、新指導者がインフラ整備や雇用の確保も含めて、国民に独立して良かったという気持ちを与えられるか。ここが最大の課題だと思います。 ●日本放送協会解説委員 嶋津八生氏  NHKの嶋津です。ミッションで見たことを10分ほどのテープに編集してきましたので、それを見ながらお話を進めていきたいと思います。(テープ始まる)  これは先ほど妹尾さんの話にもありましたが、ヘリコプターからの空撮です。(写真1)何を撮ろうと思ったのかといいますと、非常に山が荒廃し森林の破壊が進んでいて、はげ山の部分がすごく多いのです。乾季に行ったということもありますが、様々な説がありました。ここは東部の、さきほどお話に出ていたFAOが種子を供給している稲作地帯です。(写真2)ここは非常に山の中腹で水が涌き出てくるという好条件のところですが、ごらんのように川は乾季でほとんど枯れ果てています。(写真3)元々乾季には水不足になるのですが、FAOの人の説明だと森林破壊が一層水不足に拍車をかけているということで、今後農業をやっていく上では問題だと思いました。これは先ほど皆さんのお話に出ている日本人の女性、AFMET(NGO)の日本人の3人の方達の活動拠点です。(写真4)  これはピースウィンズ(NGO)の方達によるコーヒーの村の支援の映像です。(写真5,6)およそ海抜1,000メートルくらいのところにコーヒーの樹があり、金丸さんという方が現地に入って皮むき機械などを配り、付加価値をつけてなんとか市場に出せるようにしようとしているのですが、なかなか機械が動かなかったりなど、苦労は多いようです。コーヒーは今のところ、この国にとって唯一の外貨が稼げる輸出作物です。このように市場でもコーヒーが焙煎されて売られています。 ピースウィンズの金丸さんです。(写真7) 金丸(ビデオの中):現在の品質、コーヒー農家が生産している状態では国際マーケットの標準までは到達していないという現状があり、その品質を改善し、まず最初は国内市場向けに出荷できるような状態にしていくことを目的にしています。機械の方もいろいろと問題が生じまして、順調に稼動して行くまでにはまだ少し時間がかかると思います。まずコーヒーだけに頼らないような作物の多様化という方向性と、ただ現状ではコーヒーに対する依存の割合が非常に高いので、その点も考慮して、コーヒーを中心として産業復興を始めつつ、そのコーヒーをできれば輸出マーケットに繋げて行き、それを中心として作物の多様化といった方向へ今後進んで行きたいと考えています。(嶋津:多様化っていうのは具体的にどういうものを考えていますか)コーヒーのプロセスの過程で大量の水を使用する部分があるのですが、具体的には皮むきのプロセスの中で大量の水を使用するので、その排水を浄化して養魚池を作り、そこから採れる魚を売って新たな収入源としたり、あるいはコーヒーのむいた皮をコンポストの材料として、様々なフルーツの樹などを育てる育苗施設に利用したり、そういったことを考えています。もうかなり老齢化した樹が多くて、生産性も非常に低くなっていまして、その点で再植林もしなければならないので、そういったことも考えて育苗施設の整備に着手して行きたいと考えております。 嶋津:これはディリの市内の市場です。(写真8)これはコモロ市場とベコラ市場、2つともが焼き討ちされたものですから、アドラ・ジャパン(NGO)がそれらの再建プロジェクトを実施しています。建物が建てられその後の市場の管理までをやっていらっしゃるアドラの宮沢さんと中本さんという2人の活動振りを撮ったものです。(写真9)コモロ市場の方は、市場の建物を建て替えるだけではうまく行かないということで、その後のアフターケアも一生懸命やるという話しです。  子どもたちが卵売りとして、町の中を卵を売って歩いています。(写真10)物資はインドネシアから入ってきたものがほとんだと思いますけれどかなり豊富に出まわっているという印象でした。 写真1 ヘリコプターからの空撮 写真2 稲作地帯 写真3 乾季の川 写真4 AFMETの女性スタッフ 写真5 ピースウィンズのコーヒー村の活動 写真6 コーヒーの皮むき機械 宮沢(ビデオの中):商人の方達との信頼関係を築いていくのが一番大事だと思っていました。NGOとしては、市民に近い、商人に近い活動を続けて行きたいと考えており、信頼を築くためのコミュニケーションをはかるということを一番中心にやって参りました。アドラ・ジャパンとしましては、今後ソフトウェア部分のトレーニングを中心にやって行きたいと希望しています。商人の方達の福利厚生に役立つような、例えば小規模ビジネスデベロップメントや小規模商人の育成、環境問題を中心とした例えばゴミの問題、それから保健・衛生の問題などといった様々なかたちで商人の方達にもっと認識を深めていただくというトレーニングをしたいと思っています。私どもNGOと致しましては日本の援助を使って、もちろん建物を建てることも大事な部分だったのですが、特に私どもが現場に行って住民の方達と近い距離でいろいろな活動をしていけるというNGOの特性を活かして皆さんと一緒に活動していくという部分が大事だと考えておりましたので、特にこのソフトの部分に今後重点をおいていこうと希望しております。工事の際にはやはり利権が絡んでいまして、自分達で仕事を取れなかった企業や、関係のあった青年のグループが私どもの工事の現場に入ってきたりということがあったのですが、私どもの方では例えば現地の村長さんであるとか、現地のやり方で問題がないように、皆さんがお互いに理解をしていただけるような形で解決をして、話を進めて参りました。NGOと致しましては本当に市民、住民の方達に近い活動を進めてまいりたいと思います。 中本(ビデオの中):まず商人の方達が今後自分達のマーケットを彼らなりの考えで発展させていけるように、まず彼らが既に持っている能力を更に伸ばしていくために役立つトレーニングを中心に活動して行きたいと思っています。   写真7ピースウィンズの金丸さん 写真8ディリ市内の市場 写真9アドラ・ジャパン職員(左:中本氏右:宮沢氏) 写真10卵売りの少年たち そうすることによって今後、彼らにとっての市場の方向性ですとか、システム作りや制度作り、また先ほど述べさせていただきました環境問題など、彼らの視点から取り組んで行けるようになればと考えております。  嶋津:以上です。少し補足的に2点ほどお話したいのですが、NGOの皆さんにNGOの事をお話をするのも釈迦に説法みたいな感じがしますけれども、こういった紛争地域にNGOの方が入っていって、人道援助といった緊急支援―食べ物や、医薬品が無い人達にそういうものを配るなど―は、手応えとして非常に直接的に成果がわかると思うのです。けれども東ティモールのようにそういった段階はもう終わり、むしろこれから住民の生活をどう成り立たせて行くか、そういう支援になると意外と難しいのではという感じがします。アドラ・ジャパンと同じようにリキサ県で小さい市場の再建を手掛け、コーヒー栽培をやっていたピースウィンズの金丸さんに見せてもらいました。そこではコンクリートの土台を敷いて、簡単な骨組みを作った建物はできているのですが、実際には商人の人達はそこには全然入っておらず横に勝手にバラックを作って、そちらの方に店を出していました。また、恐らくわずかな金額でも入居、テナント料を払うのがいやだということなのでしょうが、そうするとゴミの問題はどうするかなど付属した問題がいろいろ出てきます。ですから日本の公共事業ではありませんが、建物を作って渡せばうまく行くのではないかというと実際問題としてはそうではないのではと、それなりに住民の本当の生活に役に立つ支援というのは案外難しいものなのだろうという印象を受けました。  それからもう1つ、コーヒーのことで補足します。先ほど申し上げたようにコーヒーはいまのところ、東ティモールにとって唯一の外貨獲得源で、実は数年前からアメリカのUSAIDという援助機関がすでにインドネシア時代に入りこみ、800万ドル拠出して日本でいう生協のような存在らしいナショナル・コーヒービーンズ・アソシエーション、そこがコーヒー農家から豆を買い取って自社の工場で加工して、それを例えばスターバックスのような所に卸すという事業活動をやっているそうです。だいたい20家族くらいのコーヒー農家を単位に一種のコーポラティブといいますか、組合を作ってそこから買い取り、東ティモールのコーヒー生産の20%くらいをカバーし、コーヒーについてはアメリカがこういうかたちで先行していて、農業支援は日本がかなりしていかなければならないようです。JICAの方もおっしゃっていましたけれど、また先ほど奥村さんからもお話しがありましたが、農業の自立というのがこの国にとって最大の課題だろうと思います。そういう意味で輸出、換金作物ではコーヒーですが、そこはある意味ではアメリカがすでに支援している。日本としてはコメや、そのほかの作物を一生懸命自立できる様に援助すべきだと思います。ただしコーヒーについても問題があって国際的な石油に次ぐ商品作物で、とにかく値上がり値下がりが激しく、今年はベトナムが突然巨大なコーヒー輸出国として出てきましたので、コーヒーが暴落して3年前にキロあたり40セントだった豆が今年はもう4分の1の10セント程度に値下がりしています。先ほど金丸さんが言っていましたけれど、それだけに頼るのはやめ、やはり村として現金収入になる、コーヒー以外の作物も作っていかなければなりません。正直いうと農家という感じではなく、コーヒーの樹が3mほどの高さに茂っているのを7月くらいの収穫期にバサバサバサと樹をたたき、落32ちたのを拾うだけで、それ以外は手入れも何もせず、日本の農家と少し違う感じなのですが、そういったコーヒー農家もいろいろ物事を考え、作物を作る、いわゆる農家として自立していけるような支援の仕方が大切な気がしました。それからインドネシア時代にコメの灌漑施設を作ったりして、コメを食べる習慣がどんどん広がっているのですが、コメが全く自給できておらず、自給できるようにすることが非常に大事だと思います。さきほど冒頭で申し上げたように、いまは特に乾季ですから全く枯れ果てしまった川がほとんどですけれど、水をどう確保するか、そのためには森林も再生しなくてはいけないでしょうし、そのあたりが非常に重要な課題になってくるのではという印象を受けました。以上です。 ●毎日新聞社論説委員 榊直樹氏  今度行った方々は海外での取材経験を持っておられますが、私は全く無く、東ティモールも初めてでした。少し政治的な観点からお話ししたいと思います。その前に極めて個人的なことを申しますと、育ったのが名古屋で、生まれて2週間で洗礼を受け、名古屋にもう亡くなられたのですが相馬さんというカトリックの司教がおられて、その方がティモールの問題に非常に熱心に取り組んでおられました。あまり新聞には載らなかったインドネシアが併合していた時に、かなりひどいことが行われているということは聞かされていまして、そして2年前にあのような事態があり、どうなっているのだろう、大変な所だろうと想像しながら行きました。  実際に現地へ行って、虐殺が行われたというサンタクルスの墓地などでやはりそのようなことがあったのだと実感しました。まず空港からディリの中心へ向っていろいろ見てもやはり何もない、焼けただれて屋根も無く、もちろん人も住んでいない家がたくさんある。すでに2年たってもまだ相当荒廃したままだなという印象を受けました。また一方で、さきほど共同通信の山田さんからもご報告がありましたように、人の表情の柔らかさということは感じました。向こうで何が一番良かったかといいますと、インドネシアが出ていき、補助金なども無くなって大変でしょうと尋ねましたら、このように夜静かに安心して寝られることが大変嬉しいのだと言っていました。これからも課題はたくさんあると思いますが、銃声が止み、焼き討ちもなくなりとにかく平和になったということが非常に大切なのだと思いました。それはもちろん東ティモールの人たち自身の努力が第一にあってのことだと思いますが、やはり国連の果たした役割なしには語れないということで、国連の非常に大きな役割を印象付けていると思います。  偶然ですが同じ時期にニューヨークでテロが起き、国際社会がその問題にどう対処するかを突きつけられているという意味では、国連が持つ2つの面を同時に考えるいいチャンス、複眼的に考える問題ではないかなと思います。テロの問題に関してはアメリカが当事国として自衛権を使っていろいろなことをするのでしょうが、安保理の決議が出て国連という権威あるいはそこでの共通の認識を理由にして、国連が持つ集団的な安全保障の枠組み、それはイコール武力とは言いきれません33が、そういう側面が今機能しています。一方で東ティモールではいろいろ国が集まってとにかく平和を回復し、創造し、そして国造りまで持っていくことをやっているという意味で、国連の両方の側面を見る事ができるのだろうと思います。  あちこち回ったときに、兵隊の方や警察の方が本当にいろいろな国から来ているということを感じました。旗が上がっていてこれはどこの国かなと思うくらいです。そういう意味では日本がアーミテージ(米国務副長官)さんから求められた「ショーザフラッグ」というのは、今度のテロの事態にとどまらず、こういう国連の新しい国造りという意味での活動にも非常に大切だと感じました。今UNTAETの組織すべてには国連のスタッフがおられて、それとイコールのようなかたちで現地・東ティモールの方に順次引き継いで行く、政権移行が順次進んでいるようです。国連の方が一生懸命やっておられた中で、さきほど千野さんからも話がありましたが、東ティモール東部で会った韓国のソンさんという方が受け持っておられた県では同じように東ティモール人の知事が選ばれました。その知事はあまり評判が良くないために、住民からは「新しい知事が選ばれたけど、やっぱり私達の本当の知事はソンさんだ」という署名まで集まったくらい一生懸命にやっておられる様子もうかがいました。  そういう国連と日本がどのように関わるかということなのですが、99年の12月には東京で会合をやり、たくさんのお金を出すという枠組みを決めた事で非常に大きな貢献をしています。ただ今回のテロの問題でも言われたようにやはりカネだけ出すのかという問題は、新しい国造りの時にきわめて大事です。さきほど経済の問題についていろいろと指摘がありましたが、今国連景気ということでお金をどんどんつぎ込んでいる、とにかく無理やり経済が活動し、血が循環しているということでしょう。しかし、これからは自分たちのポンプで動かして行かなければいけない。そういう意味では人的な、本当に地道にそれぞれが現地の人と関わってやっていくことが非常に大切だろうと思います。  今更かもしれませんが、日本がどうこの国とかかわるかという点で明記すべきなのは、インドネシアと日本との関係の中で、押さえておくべき点があるのではないかと思います。それは日本だけの問題ではなく冷戦下ということを抜きには語れないのですが、東ティモールが独立をしようとした時に、冷戦下の中で共産主義化するということがひとつの大きな理由とされて併合が認められたということです。日本は何回か国連決議が出ても、積極的に独立を促す側には立たなかったという側面があります。それは冷戦下では仕方のない事情であったと言えるかもしれませんが、やはり日本がインドネシアの内政には口をはさまないということに終始してきたことがあった事実は憶えておいてもよいのではと思います。そういうこともあり、日本としては政府の方はおっしゃいませんけれど、原罪というと言い過ぎかもしれませんが、やはり責任の一端があることを、我々が過去の歴史を知るという意味では知っていてもいいのではないでしょうか。  いち早くお金を出したことは悪い事ではないのですが、これから多民族国家のインドネシアがど34んどん分裂していくかもしれない。そういう時に少しでも負担を軽くしてあげよう、と日本がいろいろな過去を振り返りつつもう少し積極的に安定や平和の創造をしていくならば、金だけではなくて人、実際にはNGOの方がどんどん危険を犯して行っておられるということがあり、もう少し国全体としてどういうかたちで人を出すべきかを考えていかなくては、と思います。 人を出すというとPKOのことにすぐ論議が行きますが、PKOについては、様々な意見があります。例えば防衛庁でうかがっても、現行法規のままでも出せると言っておられる方もたくさんいます。今のままというのは制約の部分でいうと、PKFには出せないということや、武器使用については使用の規定を少し緩和してもらわなくてはいけないという、2つの問題があると思います。ところが、実際に行った東ティモールを見た印象は非常に安定していて、先ほど韓国のPKO部隊がドラで出迎えてくれたと言う話がありましたように、部隊の周辺はだれも警戒してない。非常に危険であれば銃を持った多くの兵隊が警戒をしているのでしょうけれども、韓国の部隊を襲うなどという雰囲気がないぐらい非常に安全だと感じました。論議をするよりもとにかく行くことが大切であったのだと、行ってみて初めて感じました。日本におけるPKOの論議一つにしても内向きな感じがして、国内の場合によっては政党間の取引みたいな問題抜きにして、もっと早く現地を見ていればもっと積極的に「ショーザフラッグ」ができるだろうという感じがしました。 ●読売新聞社論説委員 谷川平夫氏  読売新聞の谷川です。これまでに皆さんが、すでに東ティモールの情勢、それからいろいろな視点からお話していますので、私は少し東ティモールから離れて問題を考えてみたいと思います。最初はいきなりこの報告会の趣旨に反するようで申し訳ないのですが、最近私は、世界の紛争・混乱・対立、といったものに対する国連をはじめとする国際社会の解決努力、その有効性というものに対して一種のペシミズムの状態に陥っています。私は70年代に中東特派員をやって以来、中東情勢をフォローしていますが、ご存知のように最近中東情勢、パレスチナ情勢が極めて悪い。細かい話は止めますが、たしか93年だと思いますが、ラビン・イスラエル首相とPLOのアラファト議長が歴史的な和解の握手をしました。私達は、難しい中東紛争もやっと最終解決のコースに乗るのだと期待しました。ところがご存知のように1年前から再び暴力行為が多発しまして、オスロプロセスという和平シナリオが破綻、頓挫するといった雲行きになっています。私は60歳ですけれども、生きている間に中東紛争が解決するかどうか、正直言って解決できると言いきる自信はございません。それとご存知のようなアフガンの最近の動きです。さきほど榊さんがおっしゃったようにニューヨーク、ワシントンで非常に凶悪なテロが起きまして、アフガンで再び民衆がひどい目に遭うといった状況が今起きようとしています。アフガンという国は、1979年にソ連軍が侵攻し、以来内戦がずっと続いており、アフガン民衆は塗炭の苦しみにあえいでいるといっても過言ではありません。すでに300万人を超える難民が周辺諸国に流出してひどい生活をしている。恐らくこれから100万を超える難民があらたに近隣諸国に流れ、アフガン民衆の苦しみが更に深まるという状況にある。そういうことがありますので、今の地球上における紛争、それに対する国際社会の対応、どうやったら民衆の苦しみが少しでも軽減するのか。こういうことを考えると少し気分が暗く、落ちこんでいます。これがまず、最初の事です。  それから第二。東ティモールで、先ほど画面にもありましたデメロさん、国連の特別代表の方で国連の平和活動を指揮してらした方にお会いしました。デメロさんは盛んに「アンプレセダン」、つまり前例のない取り組み、非常に難しい取り組みだと強調なさいました。去年、やはり国連広報センターのお世話で10月にコソボに参りました。そのとき、そこでの国連平和活動を指揮・統括をなさった方がクシュネルさんといいまして、有名な方です。例の「国境なき医師団」の創設者です。その方もだいたい同じことを、表現は正確ではないですが、「前例のないこんな難しい仕事は初めてだ。国連にとって大変難しい、こんな経験は初めてだ」ということを盛んにおっしゃっていました。それからもっとさかのぼると、93年にカンボジアに参りました。私は70年代前半ににカンボジアの特派員をやっていましたが、93年といいますのは国連のPKOが展開していた時で、国連事務総長の特別代表が明石さんでした。その明石さんに現地でお会いした時も、「国連にとってこんな大規模なPKOは初めてで、国連の歴史にとって初めての、大変な経験なんだ」ってことを盛んにおっしゃっていました。更に1989年だと思いますけれども、ナミビアのPKOを見に行きました。あの時の国連代表も、国連にとってこんな大変な仕事を引き受けたのは初めてだということをおっしゃいました。要するにどこに行っても、いつ行っても、「これは前例のない、難しい平和構築の実験である」ということを盛んに強調なさいます。任にある方はいかに自分の引き受けた仕事が難しいかを強調なさりたいのでしょうけども、私は、半分本当で半分嘘だろうと思っています。すでに国連は平和構築の様々なハウツウを身につけています。今回の場合、選挙実施のやり方、選挙監視のやり方、そしてたくさんのNGOとの連携の仕方、UNHCRといった各国連機関の横の協力。そういった経験、ノウハウというのは相当集積されている。それを有効に活用して東ティモールの新しい国造りを国連が支援しているということだと思います。では前例がないというのは嘘かというと、私はそうではないと思います。つまり紛争といいますのは、形態、地理的条件、風土、それから歴史、対立の構造、つまり宗教的対立なのか民族的対立なのかいろいろ違いますから、その解釈の模索がすべて前例のない取り組みになるのは当たり前なのです。したがって国連にいくらノウハウがあっても、杓子定規にそれを適用して東ティモールなり、カンボジアなり、コソボなりで平和構築の仕事をやるわけにはいかない。そういう意味で国連の平和構築の努力は、毎回毎回創造的な仕事であるということです。創造的な仕事というのは何かと申しますと、やはり新しい考え方、発想、特にNGOの方に期待したいのですが、新しい実践です。平和を再建する、崩れた平和を立てなおすどの努力においても、常に創造性が求められます。さきほどのビデオに日本のNGOの方が活躍なさっているところが出ていますけれども、ああいった方々はまさしく創造的な現場の最先端でご活躍なさっている方だ、と尊敬の念を抱きました。  次のポイントですが、東ティモールの経済的自立は難しいとかいろいろな問題を皆さんがご指摘なさいましたけれども、たしかに難しいと思います。一点だけ、私の印象を申し上げれば、「ここ36はやはりアジア」、より限定的に申し上げれば、「東南アジアだな」ということです。つまり中東、その他のアフリカの紛争は、和解を拒否するような厳しいものがあります。東南アジアには、どこかやさしさがある。もちろん東ティモールであれだけの悲惨な状況があったので、そういうことを言ってはまことに申し訳ありませんが、中東とは違う東南アジアの風土、人柄、人間性、人々の国民性・民族性がこれからの平和再建の取り組みにおいて大きなプラス要素になっていくと思います。例えばカンボジアは長期間の内戦があり、それから例の大虐殺で100万とも200万もの人が殺されました。大変辛い時代がありましたが、今日においては国連の支援もありまして、日本も様々な形で援助しましたが、どうやら国造りが軌道に乗って、人々が平和を取り戻し、うまく行くのではないかと期待が持てるのです。私は、カンボジア特派員の後、あの国に対して、内戦と虐殺の間、中東に対して現在持っているのと同じような印象を持っていました。それが今やカンボジアは大いに期待できる国になりました。そういたしますと、今はどこに出口があるのか見えない中東紛争でもいずれ出口が見えるのではないかという希望が持てるわけです。それからコソボですが、コソボで国連の広報官をやった後、お辞めになって大学の教授をされています中村恭一さんがこの会場におみえになっています。先程中村さんが先日コソボに行き、コソボが立派に復興しつつあるという話を聞きました。大変勇気付けられました。  最後に紛争というのは何かといろいろ考えた場合、極めて抽象的ですが、今の世界システムのゆがみの部分だと私は思います。世界の仕組みの欠陥がそこに現れている。歴史的に人類が克服してきたものも、まだ克服してないものもある。それが混ざったものが今の世界の構造です。最近は経済的困難に苦しんでいますが、国民の所得水準や寿命等々考えて、今の世界システムの中で最も明るい場所にいるのが日本人です。我々日本人は世界システムの中のゆがみ、ひずみに苦しんでいる人に手を差し伸べる義務、責任があると思います。若干情緒的にいいますと、我々の幸福は他人の不幸に寄りかかっている面があるのだと思います。決して幸福というのは自分たちだけの努力の果実ではなく、そのシステムのよい部分に乗っかっているだけだと、そういった意識を持つことが必要だと思います。そして最後にODA。財政難の折で、日本のODAは削減されることになっております。ODAは、無駄なところも多いですから、そこは断固削らなくてはいけない。しかし世界で苦しんでいる人、貧しい人、そういう人に対する援助の努力において日本は後退してはならないと思います。以上、簡単ですが4つのポイントをお話しました。ありがとうございました。 ●国際協力事業団選挙監視団団長 高橋昭氏  日本政府派遣の選挙監視は全部で19名、8月14日に先遣隊が出て本隊は23日から現地に9月1日までいました。選挙監視ということで大きく3つほどの目的がありました。まず事前のキャンペーンの状況を見るということ、それから選挙に対する準備状況を監視するということ、それから投票日に投票の状況について監視すること。ただ1日に帰ってきてしまったので、残念ながら投票の開票プロセスは充分には見られませんでした。翌日31日にすぐ開票になりましたから、我々は中央の開票所には行って見ましたけれども、ほんの垣間見たという感じでした。その結果が6日、7日に出て先ほど報告があったようにフレテリンが55議席をとったというプロセスを実は我々は監視しておりません。我々が監視をした場所は、投票所、ポーリングセンターと言っていますけれども、それが全国、248にあります。13県それぞれにあって248ですから、大まかにいうと一つの県に20くらいです。その下にポーリングステーションという言葉を使っている、投票箱があります。ですから例えば小学校が投票所になりますと各クラスにひとつずつ投票箱をおきまして、具体的にいえば2つ置いています。地方区と全国区ですので。その各々をポーリングステーションといって、通常4つから5つくらいのポーリングステーションがポーリングセンターの下にあるという感じでした。私どもはそのうち13県のうち3県を2つの班に分けてカバーいたしまして、首都のディリと先ほどから名前が出てきている西側の県のリキサという所、それから東側のさきほどヘレン・ソウ女史に会ったというラオテム県のロスパロスへの途中ですが、マナトウトウという、すぐディリの東側の県です。この県は先ほど名前が出てきました大統領になると言われているシャナナ・グスマンの出身地で、彼が投票した投票所も我々が監視した投票所でした。一言でいいますと日本のメディア等でも報道されたように投票そのものは平穏に終わりましたし、90%を超える非常に高い投票率で、我々が見ても非常にスムーズに投票が行なわれました。今回、8月30日が投票日で、その前日29日はクーリングダウンといって1日すべて休みとし、キャンペーンをしてはいけない日を1日置きました。それで投票しました。したがってキャンペーンの最終日は8月28日でしたが、そのときにはさすがに首都のディリはフレテリン一色で大変な数の車がフレテリンの旗を振ってキャンペーンをしておりました。いろんな噂がありました。フレテリンに対する批判もずいぶんありました。例えば、フレテリンに投票しなければ、新しく政権ができたらあなた方職業はないですよと脅かしをしたなどと。結果として選挙、投票そのものも我々が見た範囲内ではかなり自由で公正な投票が行なわれたと感じました。それが印象でございます。  いくつか感じたことをご報告申し上げますと、まず一つはこの選挙に対する国民の期待が非常に大きかった。これは投票率が90%を超えたということで明らかですけれども大変驚いたのは、国土面積が15,000km2ですから日本の一つの県例えば長野県とか岩手県と同じ位のところに248のポーリングセンターがあるのですが、山間のところではポーリングセンターまで片道25kmあります。山道ですから片道6時間以上かかるわけです。ですから前日の晩に出て夜を徹して朝7時の投票開始に間に合うように歩いて来るというような人達、たまたまそういう風景も私は見ましたが、大変な熱心さでした。これは選挙に対する期待・熱意、これはUNDPも含めてその前のシビック・エデュケーションなどで、住民に対して選挙の重要性をかなり積極的に啓発したその成果が出ているということと、住民の熱意というのはあるのでしょうが、それ以外にもいくつかあるのではと思います。1つは選挙に行くことに対してある種の世間体のような事があるようです。例えば狭い所なので、自分が行かないとそれがわかってしまい、なぜ行かないのかとある種の積極的な棄権という形で批判される心配はあるでしょうし、それから選挙には行くべきだといわれて自分が行かないというのはなんとなく具合が悪かろうというのもあるでしょう。それからもう1つはもう少し明るい雰囲気でしたが、この国には大きなイベントがないのです。ある種の非常に大きな国をあげてのイベント38なのです。お祭りに行くような感じといったら少し失礼かもしれませんが、そういうことでポーリングステーションに色々な村から集まってくる。したがって小さな子どもや赤ちゃんを連れて、皆さん集まってくる。特に首都のディリは赤ちゃん連れがズラーっと並んで、僕は赤ちゃんを家においてきては大変なので連れてきているのだろうと思ったら、実はそうではないのです。赤ちゃんを連れている人は優先的に投票できるというので、どうも赤ちゃんの貸し借りが行なわれたらしいのです。いずれにしても91%で、日本のように雨が降ると投票率が低いとか高いなどという不真面目さはあまりないのではないかと感心しました。それからもう1つはこの選挙が正式に告示されたのはご存知のように今年の3月16日です。ですから選挙までに5ヶ月半しかなかったわけです。その間に住民台帳がないので住民登録をし、それに基づいて選挙人の名簿を作り、それからチャレンジと英語では言っていますが、選挙人名簿を公表してそれにチャレンジできるわけです。これはおかしいとか、自分が入っていない、この人が入っていないなどと確認する期間を置きながらなおかつ政党の登録までして、それで選挙運動期間を7月15日から8月28日までおき、これだけスムーズに選挙ができたということはこの国にとっては大変な事だろうと思います。これはティモール人の選挙に対する参加意識の高さということもあるのですが、それと同時にUNTAET、IEC(Independence Electoral Commission)、日本語で言うと選挙管理委員会、それからUNDPが積極的にシビック・エデュケーション等の啓発教育を行いました。非常に徹底したティモール人選挙担当者の教育をしたということです。もちろんティモール人関係者の努力というのは大変なものだと思います。  大変印象的でしたのは、ある選挙投票所に行きましたら、ティモール人の関係者、投票所を管理する人達が摸擬投票訓練をやっていました。識字率が低い。統計を見ますと女性の識字率は4割くらいではないでしょうか。投票用紙が2つありまして、まず1つは全国区、もう1つは地方区用です。政党の名前の所に丸をつけるか、ないしはインドネシア方式で釘がありまして釘で穴をあける。でも字が読めないとどうしようもないので各政党は自分たちのシンボルである旗でどの政党かわかるようにしてあり、字の読めない人に対して投票所の管理の人達が中立的な立場でお手伝いをする、その役目を具体的にやっていました。また障害者に対する支援を具体的にやっていました。最後に、手が震えた人が来ました。なんだろうと思って見ていると、体全体が震えていてマラリアに罹った人なのです。当然マラリアに罹った人は書けないわけですから、そういう人を助けるために準備もしているという、非常に微にいり細にわたる準備状況を見まして、準備そのものを楽しんでいる雰囲気があり、ある面ではほっとしたと同時に、それが今後の国造りに向けての1つの力になるのではないかというような印象を強く持ちました。いずれにしても投票の結果は先ほどありましたのであまり詳しくは言いませんけども、フレテリンが55で60という憲法制定のための議席数は確保できませんでした。選挙前にはフレテリン幹部は圧勝ですよと話していたのですが、ある意味ではティモールの人達は非常に良い判断をしたと思います。今後は一党独裁にならないでいろいろな人達の意見を聞く、また聞かざるをえないのではという状況になってくるだろうと思います。心配は最初の制憲議会がたしか9月17日にありそこで議長が選ばれまして、フレテリンの総裁が議長になりましたが、2人選んだ副議長の選び方についてすでに内部で紛争があります。選び方のプロセスがい39けないという部分と、ナンバー2の政党からではなく、ナンバー3よりずっと下の人が選ばれている。議席がたしか2つくらいしかない政党の責任者なのですが、その人が副議長になり、副議長の選出が不明朗であると同時にルール違反ではないか。というのはルールでは、議長と副議長は一つのまとまりで選挙するのであって同一にやるべきものを17、18と2日間に分けてやったのだそうです。そういうことも含めてすでにきしみが聞こえてくる。ですから今後しばらく目が離せない。先ほどから大統領の話がさかんに出ていますが、大統領は本当に我々が考えているように選挙で選ばれるのか、88人の中制憲議会で選んだらどうかという意見もあります。そうすると選挙の期間も短くなるし、当然費用もかからない。したがって独立も早くできる。今後しばらくこういう意味で制憲議会の議論を注意深く見ていると、将来のティモールの問題が浮彫になってくると思います。 東ティモール関連の新聞記事  2001年8月19日〜9月12日   日経新聞2001年8月19日   朝日新聞2001年8月26日   毎日新聞2001年8月27日   産経新聞2001年8月28日   読売新聞2001年8月29日   産経新聞2001年8月29日   朝日新聞2001年8月31日   朝日新聞2001年8月31日   岐阜新聞2001年8月31日   日経新聞2001年8月31日   毎日新聞2001年8月31日   毎日新聞2001年9月 3日   読売新聞2001年8月31日   読売新聞2001年9月 5日   毎日新聞2000年9月11日   読売新聞2001年9月 7日   毎日新聞2001年9月12日   産経新聞2001年9月12日 東ティモールの歴史  16世紀前半 ポルトガル人来航  16世紀後半 ポルトガルがティモール全島を征服、植民地へ 第二次大戦  1942年   日本軍がティモール全島に駐留 終戦  1945年   インドネシア独立宣言        西ティモールはインドネシアの独立と共にインドネシア領に併合        東ティモールは依然としてポルトガル領のままとして残る  1974年   ポルトガル本国でクーデター、海外の植民地解放を決定      当時の東ティモールにおける勢力      ・ティモール民主連合(UDT):         ポルトガルからの段階的独立を訴える      ・東ティモール独立革命戦線(フレテリン):         元ティモール社会民主協会(ADST)         ポルトガルからの即時・完全独立を訴える      ・ティモール人民民主主義協会(アポデティ):         インドネシアとの併合を訴える  1975年   フレテリンが東ティモールの独立を宣言        インドネシア国軍『義勇軍』が軍事介入し、国軍が「暫定政府」を樹立  1976年   インドネシアスハルト大統領が、東ティモールを27番目の州とすることを宣言  1991年   11月12日 ディリ(サンタ・クルス)事件        首都ディリのサンタクルス墓地でインドネシア国軍と学生デモ隊と衝突。        多数の東ティモール人が死亡。この地域に対する国際社会の関心が高まる  1998年    5月   スハルト政権崩壊   6月   インドネシア、ハビビ大統領、東ティモールの拡大自治案を提案        それ以後、完全独立を目標とする独立派とインドネシア併合を希望する統合派の間で武力紛争が勃発  1999年    1月   インドネシア政府は東ティモールへの自治提案が住民投票で拒否されれば、        インドネシアからの分離を国民協議会に提案することを決定    4月   併合派民兵がリキサの教会を襲撃        これに対し、ファリンティルが武装抵抗            *このころから民兵とファリンティルの戦いが始まる        FALINTIL(ファリンティル):東ティモール民族解放軍         東ティモール独立革命戦線(フレテリン)の軍事部門として組織された。         ファリンティルは、東ティモールがインドネシアに占領されて以来、         ゲリラ活動でインドネシア軍に抵抗し続けた。シャナナ・グスマンが最高司令官        併合派民兵         併合以来東ティモール西部に勢力をもつ私兵集団で、ハビビ大統領の独立容認         で各集団が団結する。アイタラク(棘),ブシ・メラ・ティ(紅白の鉄),         ハリリンタル(稲妻)などの民兵組織がある        住民投票後、さらに住民襲撃が激化    5月5日 インドネシア・ポルトガル・国連は自治提案の受け入れの是否を問う直接投票を        8月15日に行うことで合意   6月11日 国連東ティモール・ミッション(UNAMET)の設立の国連安保理決議1246を採択   6月12日 UNAMET活動開始   7月29日 併合派民兵らUNAMET事務所を襲撃   7月16日 有権者登録開始   7月28日 投票日が8月30日に変更   8月26日 ディリで併合派民兵による襲撃、犠牲者多数 〜直接投票からUNTAETの設立まで〜  1999年   8月30日 直接投票開始        全登録者の98.6%(約446,953人)が投票を行う    9月1日 UNAMET本部前で発砲事件、安保理の非難声明    9月2日 住民投票実施後、東ティモールにおいて暴力事件が多発        国連東ティモール・ミッション(UNAMET)の現地スタッフ2人がマリアナにおいて殺害される    9月4日 投票結果発表     東ティモールにおける投票率98.6%     自治選択票21.5%(94,388)     独立選択票78.5%(344,580)      (出典The United Nations and East Timor 2000)  発表後、結果に不満を持った併合派民兵が独立派拠点を中心に破壊・暴力行為を開始し、現地情勢が急激に悪化。    9月6日 ベロ司教邸襲撃    9月7日 東ティモール全州に「軍事緊急事態」(戒厳令)を布告   9月12日 ハビビ大統領が国際的な平和維持軍を受け入れる用意がある旨発表   9月14日 東ティモールの治安状況がさらに悪化するなか、国連は、中核となる要員を除く        すべての国際および現地職員をUNAMET本部(ディリ)からオーストラリアのダーウィンに移送   9月15日 国連安保理は東ティモールにおける平和と安全を回復すること等を任務とする、        INTERFET*の設立を認める決議1264を採択   9月20日 国際軍第一陣ががディリ近郊の空港に到着   10月20日 インドネシア国民協議会は、東ティモールの分離を認める決定を採択   10月25日 国連安保理は国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)の設立を決定する決議1272を採択   10月30日 インドネシア国軍が撤退準備  国際軍の展開後、統合派武装組織は西ティモールへ逃亡し、同年12月に武力闘争の放棄宣言とともに右組織は解体した。 *INTERFET(International Force in East Timor)東ティモール国際軍。広範な自治案の付与とその受け入れを問う住民投票の結果発表後に、治安が悪化したことを受けて、東ティモールに展開したオーストラリア軍を中心とする多国籍軍。 6 憲法制定議会選挙 1.憲法制定議会選挙に向けて  2000年   2月23日 INTERFETからUNTAET軍事部門への移行完了   7月15日 デメロ特別代表は、東ティモール暫定内閣メンバー8名を任命        内閣担当、インフラ担当、経済担当、社会担当の4名は東ティモール人    9月6日 西ティモールでUNHCRの職員3人、国際人道活動家1人が民兵に襲撃され死亡    9月8日 国連安保理、インドネシアに民兵の解散と武装解除を求める決議1319採択   10月23日 National Council(国民評議会)第1回会合  2001年   1月31日 国連安保理はUNTAETの権限を2002年1月31日まで延長することを決定   3月16日 憲法制定議会選挙に関する規則公布        独立選挙委員会(IEC)発足        住民登録開始    5月7日 政党登録開始   6月23日 住民登録完了   6月24日 政党登録受付終了   7月15日 政党による選挙活動開始   8月30日 憲法制定議会選挙        *制憲議会の会期開始から90日以内に憲法を採択         憲法案は議員60人以上の賛成で可決、成立する。   8月31日 選挙結果発表開始        今回の投票率は約91% IEC(独立選挙委員会) 任務:政党登録、有権者・立候補者の資格の決定、投票結果集計、選挙違反防止、選挙結果の確認および事務総長特別代表への提出など。 2.憲法制定議会選挙 憲法制定議会選挙の構成  議員定数:88名    内訳:各県代表(小選挙区)13名       全国区75名   選挙権:住民登録された者(737,811名)の中から17歳以上のもの(約40万人)で以下の       要件を満たすものが選挙権を与えられる。      ・東ティモールで出生      ・両親のいずれかが東ティモールで出生      ・上記2つのいずれかを満たす配偶者を持つもの    政党:選挙区、比例合わせて1,138名が登録された。女性候補者は全体の27%。       選挙法により、独立派、統合派を問わず、500名以上の有権者の署名を得た政党は、       政党登録可能。       政党登録なしで立候補する場合はIECに対し登録申請を行う。  東ティモール登録政党一覧(全16政党) ・フレテリン :フレテリン(東ティモール独立革命戦線) ・中道諸党 :社会民主党(PSD) :民主党(PD) ・フレテリン分派系諸党 :ティモール社会党(PST) :ティモール社会民主連合(ASDT) :ティモール国民党(PNT) ・キリスト教系諸党 :キリスト教民主党(PDC) :ティモール・キリスト教民主党(UDT/PDC) ・インドネシア統治協力系 :ティモール民主連合(UDT) :ティモール闘士連合(KOTA) :直接投票を支持するティモール大衆民主連合  (APODETI ProReferendum) ・その他の小政党 :ティモール労働党(PTT) :ティモール人民党(PPT) :自由党(PL) :マウベル民主党(PDM) :パレンティル(東ティモール国民共和党・PALENTIL)  非登録政党   東ティモール人民戦線(BRTT)  政治団体   東ティモール民主共和国防衛人民評議会(CPD-RDTL) 3.憲法制定議会選挙を終えて…    9月10日選挙結果発表完了 2001年8月30日憲法制定議会選挙の結果   党名     議席数(定数=88) ・フレテリン      55 ・民主党        7 ・社会民主党      6 ・社会民主連盟     6 ・民主連合       2 ・民主キリスト党    2 ・人民党        2 ・キリスト民主党    1 ・社会党        1 ・自由党        1 ・無所属        1          (うち女性23人)    9月14日 西ティモールの東ティモール難民、約10万人のうち第一陣の900人以上が帰還    9月15日 憲法制定議会召集    9月20日 正式独立まで、UNTAETの下で第二次東ティモール暫定政権発足         *警察機能はUNTAETの直轄 第二次暫定政府(東ティモール人のみ) 新閣僚11人(フレテリン7,制憲議会以外の専門家4) その他に顧問4人,副閣僚10人 筆頭閣僚兼経済担当大臣マリ・アルカティリ氏(フレテリン) 外務大臣ラモス・ホルタ氏 (現在、大統領の権限に対する議論が起こっている。)    9月19日 真実和解委員会選考パネル・運営委員会(13人構成)が初会合開催    9月24日 閣僚評議会、初の正式会合開催    12月        憲法制定後に国会設立 2002年    3月   大統領選挙    5月20日 独立(予定) 7 国連東ティモール・ミッション United Nations Mission in East Timor=UNAMET 設立決議 決議1246 使命 1999年8月15日に予定された直接住民投票の組織運営(治安の悪化のため8月30日に延期) 任期 1999年9月30日(決議1257) 本部 ディリ(東ティモール) 東ティモール事務総長特別代表 イアン・マーティン氏(英国) 派遣規模  国際職員 210名 文民警察要員 271名  軍事連絡要員 50名 文民警察派遣国  アルゼンチン、オーストラリア、オーストリア、バングラデシュ、ブラジル、カナダ、エジプト、ガーナ、 アイルランド、日本、ヨルダン、マレーシア、モザンビーク、ネパール、ニュージーランド、パキスタン、  フィリピン、韓国、ロシア連邦、セネガル、スペイン、スウェーデン、タイ、英国、ウルグアイ、  米国、ジンバブエ 軍事連絡要員派遣国  オーストラリア、オーストリア、バングラデシュ、ブラジル、デンマーク、アイルランド、  マレーシア、ニュージーランド、ロシア、タイ、英国、米国、ウルグアイ 8 国連東ティモール暫定行政機構   United Nations Transitional Administration in East Timor=UNTAET 設立年月 1999年10月 設立決議 安保理決議1272(1999) 展開場所 東ティモール 本部所在地 ディリ 任期 2002年1月31日(安保理決議1338(2001)) 使命 東ティモールの立法、行政、司法にかかわる全ての権限の行使 ・東ティモール全域における安全の提供および法と秩序の維持 ・効果的な行政の確立 ・民政および社会サービスの開発支援、人道支援、復興・開発支援の調整および提供の確保 ・自治のための能力育成支援等 UNTAET組織構成  セルジオ=ビエイラ・デメロ(ブラジル)事務総長特別代表(暫定行政官)  デニス・マクナマラ(ニュージーランド)事務総長副特別代表(副暫定行政官)  鈴木信一(日本)開発・人道担当特別顧問  セルジオ・ロザリオ(ブラジル)軍事監視主任  ウィナイ・パティヤクル(タイ)軍事司令官 NC(National Council,国民評議会)  UNTAETの下で、東ティモール人代表が意思決定過程に参加するための主要メカニズムとして設立された国家諮問評議会(NCC)を組織改編するもの。全13県の代表各1名(13名)、政党代表13名、カトリック協会代表1名、プロテスタント協会代表1名、イスラム社会代表1名、7つの市民団体代表各1名(7名)の計36名から構成。構成メンバーは東ティモール人と十分協議した上でデメロ特別代表(暫定行政官)により決定された。 派遣規模(2001年7月30日現在)  軍事監視要員123名、文民警察要員1,428名、部隊要員7,969名 要員派遣国(同上)  オーストラリア、オーストリア、バングラデシュ、ベナン、ボリビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、  ブラジル、カナダ、カーボべルデ、チリ、中国、デンマーク、エジプト、フィジー、ガーナ、ガンビア、  ドイツ、アイルランド、ヨルダン、ケニア、韓国、マレーシア、モザンビーク、ナミビア、ネパール、  ニュージーランド、ニジェール、ナイジェリア、ノルウェー、パキスタン、ペルー、フィリピン、  ポルトガル、ロシア連邦、セネガル、シンガポール、スロベニア、スペイン、スウェーデン、スリランカ、 タイ、トルコ、米国、ウクライナ、英国、ウルグアイ、ベネズエラ,アルゼンチン、サモア 犠牲者数(2001年6月2日)  16名(事故8名、敵対行為2名、病気4名、その他2名) 9 国連事務総長特別代表およびUNTAETの長の略歴 国連事務総長特別代表 セルジオ=ビエイラ・デメロ氏  1999年11月にセルジオ=ビエイラ・デメロ氏(ブラジル国籍)は東ティモールの国連事務総長特別代表、およびUNTAET(国連東ティモール暫定行政機構)の長に任命されました。  デメロ氏は1996年1月から国連難民高等弁務官補を務め、バングラデシュ、スーダン、キプロス、モザンビーク、ペルー、レバノンなど本部および地域事務所で、人道援助および平和維持分野における幅広い活動に携わってきました。  これまでに国連難民高等弁務官事務所カンボジア特使、カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の難民帰還担当部長、国連保護軍(UNPROFOR)の民生部門担当部長ならびに国連大湖地域人道調整官を歴任しており、また1998年1月からは国連緊急援助調整官を務めていました。  デメロ氏は1948年3月15日生まれ。ブラジルおよびフランスにて就学し、ソルボンヌ大学博士号を取得。 10 参考資料 The United Nations and East Timor :Self-determination through popular consultation, (New York:Department of Public Information United Nations,2000) http://www.un.org/peace/etimor/etimor.htm,(East Timor-UNTAET,2001) 「東チモール」,http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/index.html,(外務省南東アジア第二課,2001) 国際連合広報局,『国際連合の基礎知識』(東京:財団法人世界の動き社,1999) 「東チモール問題」「最近の東チモール情勢」「東チモール政党一覧」(外務省南東アジア第二課資料,2001) 「東チモール憲法制定議会議員選挙への監視団の派遣について」(内閣府国際平和協力本部事務局資料,2001) 高橋奈緒子,益岡賢,文珠幹夫『東ティモール:奪われた独立・自由への闘い』 (東京:明石出版,1999) 高橋奈緒子,益岡賢,文珠幹夫『東ティモール2:「住民投票」後の状況と「正義」の行方』 (東京:明石出版,2000) imidas編集部ed.,『imidas 2001(p.404,p.441〜443)』(東京:集英社,2000)・・2001年12月 国際連合広報センター 東京都渋谷区神宮前5丁目53-70 UNハウス8階 〒150-0001電話(03)5467-4451〜2  UNIC Homepage:http//www.unic.or.jp  UN Homepage:http//www.un.org  Email:unictok@blue.ocn.ne.jp 東ティモール・メディア・ミッション(帰国報告会の開催と本小冊子 の作成を含む)は、日本政府からの拠出金により実施されました。 協力:国際連合広報センター・インターン(沢田恵理、清水美知、藤田昌子)