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強い国連、より良い世界
70歳の国連—元職員の立場から

マーガレット・ジョーン・アンスティー

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1945年、2度にわたる世界戦争の恐怖を経て、国際平和と安全という大きな望みとともに創設された国連は、70歳という記念すべき節目を迎えました。今こそその実績を総括すべき時期と言えます。

過去70年の間に、国連は急激な成長を遂げ、人間の存在のほとんど全ての側面の改善を目的とした多くの組織や機関を生み出しました。その規範的な活動は、人権から薬物統制、さらには核軍縮に至るまで、広範に及びます。貧困は大きな惨害とみなされ、開発途上国で技術・資金援助活動を行う幅広いプログラムのネットワークが作り出されました。

国際平和と安定に対する脅威を解消または削減するという、国連憲章の主なねらいに沿った国連本部での政治的活動は、混乱と混迷を深める世界情勢に直面し、必ずしも成功を収めていません。調停と紛争解決を支援してきた平和維持活動のミッションは冷戦終結後にその数を増し、安全と開発が密接に関連しているという認識が高まる中で、現在では平和構築の側面も包含するようになっています。

国連の欠点だけを取り上げて批判し、多大な困難の中で達成された成果から目を背けることが、最近の流れになっています。しかし、地域的、局地的な戦争が多く発生し、人類は数度にわたり大惨事の瀬戸際に立たされてきたものの、世界戦争は回避されています。貧困や不平等はなくなっていないものの、母子保健や乳児死亡率といった重要な分野で大きな前進が見られ、天然痘という死に至る病気は根絶されました。国連は自然災害や人為的災害への対策も多く手がけているほか、気候変動をはじめ、国際的重要性を有する新たな課題にも、先頭に立って取り組んでいます。

私は63年間にわたり、国連の様々な側面に関わってきましたが、うち1952年から1993年までの41年間は正規の職員として、そして退職後は、顧問やボランティアとして活動しています。私が1952年、国連が初めて技術援助の拠点を設けた国の1つ、フィリピンで現地職員となったのは、単なる偶然でした。こうして始まった長い職務経験で、私は多くの満足を感じただけでなく、いくつか落胆も味わいました。主として現場での活動プログラムに携わり、アジアやラテンアメリカ、アフリカの貧しい開発途上国で22年を過ごせたことは、私にとって幸運でした。これらは具体的な目標と測定可能な成果を伴う、目に見える活動だったからです。

当時、経済・社会開発の推進は、貧困国への支援提供と同様に、まだ新しい概念でした。私たちも国連も共に若く、大きな希望を持っていた時代に、この新しい取り組みに参加できたことは、刺激的な冒険でした。男性ばかりの職場に足を踏み入れた私にとって、それは特に困難な、しかしやりがいのある仕事でした。私は、後に国連開発計画(UNDP)へと発展する拡大技術援助計画(EPTA)で初の女性国際フィールド担当官となりました。1956年には、コロンビアでEPTA常駐代表代理を務め、1957年には、ウルグアイで正式に常駐代表となりました。私は自分が「試験的採用」であるとの警告を受けましたが、7年たっても他に女性の常駐代表はいなかったので、私は「試験には不合格だったのですか」と尋ねたほどです。すると、2人目の女性が任命されましたが、その後何年もの間、他に女性はいない状態が続きました。そして半世紀が経過した今も、UNDPの国別ミッション責任者(現在は通常「常駐調整官」と呼ばれています)131人のうち、女性はわずか48人と、模範を示すべき組織としては及第点に達していません。

私はさらに、アルゼンチン、ボリビア、エチオピア、モロッコ、チリでも常駐代表を務めました。1974年、アウグスト・ピノチェト将軍による流血クーデターの後、秘密警察から家宅捜索を受けた私は、ニューヨークに転勤になりました。そして1977年には、UNDP初の女性総裁補に抜擢され、計画政策・評価局を率いることになりました。

当時の事務総長の強い要請により、国連事務局に移った私は、初の女性事務次長補としてラインのポストに就き、技術協力・開発局(DTCD)の局長として、全世界の活動プログラムを管理しました(1978~1987年)。1987には、これも女性としては初の事務次長に昇進し、国連ウィーン事務局長に就任しましたが、ここで私は、東欧で事務総長を代表するだけでなく、麻薬統制、犯罪防止、刑事司法、さらには社会開発に関する全世界のプログラムの運営も任されました。女性が事務次長や専門機関の長に就任することが稀でなくなってきたことは、嬉しく思っています。

1992年には事務総長から、アンゴラで事務総長特別代表(SRSG)と国連アンゴラ検証団(UNAVEM II)の団長を務めるよう要請がありました。私は躊躇しました。国連のマンデートが不十分であったばかりでなく、泥沼化した紛争に取り組むための資金が不足していることを知っていたからです。その少し前、前任の事務総長が私を国連本部の平和維持担当局長に起用しようとしましたが、各国大使などから、女性に兵員の指揮権を握らせることに対する反発が高まり、断念せざるを得なかったという経緯もありました。アンゴラのミッションが失敗する可能性は十分にあり、仮にそうなれば、SRSGが女性であることに非難が集中するでしょう。しかし結局、私は2つの理由から、この難しい任務を引き受けることにしました。それは、このポストが国連で最後に突き崩すべき男性の牙城であったことと、私自身がそれまで長い間、身体的、職業的なリスクを冒す勇気を持つよう、女性に働きかけていたことです。

私がここで、国連が女性問題に果たした役割を中心に紹介するのは、この分野では前進が見られたからであり、しかも私自身がそれなりの役割を果たせる立場にあったからです。女性のパイオニアとしての役割は容易ではありません。男性の職員よりもはるかに大きな実績を残さねばならず、しかも、自分自身のキャリアだけでなく、後に続こうとする後輩の女性たちの未来もかかっていることを実感せざるを得ないのです。

国際的に重要な転機となったのが、1975年にメキシコシティ、1980年にコペンハーゲン、1985年にナイロビ、そして1995年に北京で開催された世界女性会議と、1979年に採択された「女性に対するあらゆる形態の差別撤廃に関する条約」でした。国連は、その官僚機構の中で女性の地位を高めようとする取り組みにおいて、女性問題だけを取り扱う限定的なポストを創設するという誤った方策を取りました。私が歴任したポストは、1987年にウィーンで女性の地位向上部を担当するまで、以前は男性しか就任していないポストであったことを誇りに思います。現在、多くの女性が国連内で幅広い要職に就いていることは、喜ばしい限りです。

女性のSRSGへの任命は当初、なかなか進みませんでした。私に次ぐ2番目の女性が任命されるまでに、5年がかかりました。もう一つの転機となったのは、安全保障理事会が女性と平和、安全に関する決議1325(2000)を採択し、事務総長に女性SRSGの増員を求めるとともに、戦争に巻き込まれた女性のあらゆる側面に取り組んだことでした。その発端となったのは、私が議長を務めた2000年5月の平和維持におけるジェンダーの課題に関するウィントフック会議で、ナミビアが同年10月、安保理にその報告を行いました。しかし、国連の決議の多くがそうであるように、この決議の実施も遅々として進みませんでした。現在では、21人の国別SRSGのうち5人と、国別副SRSGのうち2人を女性が務めるなど、改善は見られますが、女性が交渉の席に着くケースが極めて稀であることに変わりはありません。

国連システムの実効性は、半ば自律的な機関やその他の主体が数多くあることで損なわれています。特に開発協力の現場では、一貫性のなさが露呈しています。私は何度となく、この状況を改めるための取り組みに関わってきましたが、その最初が、私が首席補佐官を務めてロバート・ジャクソン氏が作成した『国連開発システムの能力に関する研究』(1969年)でした。この報告書は、「財布の力」を通じてUNDPの権限を強化し、援助が各機関から押し付けられたプロジェクトではなく、各国の優先課題を反映するようにするとともに、システムの「声をひとつにする」という、徹底的な改革を提案しました。これは包括的な提案として意図されましたが、断片的にしか採用されませんでした。またとない機会を活用できなかったことで、開発協力を提供する国際的、地域的、国内的機関の数は増幅し、組織の遠心力が強まり、UNDPの役割は曖昧になりました。その後の改革への取り組みでも、同じ主張が繰り返されたものの、加盟国と硬直した官僚組織双方の既得権益による反発に再び遭いました。私たちが開発協力を受取国の優先課題に適合させるまでには、依然として長い道のりが残されています。

国連はますます政治色が強くなっています。ダグ・ハマーショルド事務総長が1961年、オックスフォード大学の講演で述べたこと、つまり、国連職員は事務総長と国連憲章に対してのみ責任を負うという理念は、大幅に後退しています。

  • 加盟国による国連の運営への介入と、自国民の任命と昇進を求める動きがあまりにも強くなっています。
  • 自らを自国の利益を代表する存在とみなし、それぞれの大使館や本国政府に支援を求める国連職員が多くいます。
  • 政治的に任命された事務次長や事務次長補は、必要な資質や経験を欠くことが多くあります。
  • 国連の基本的原理からの逸脱があった場合でも、処罰や制裁が行われていません。
  • 強大な加盟国の機嫌を損ねれば、事務総長再任の見通しに影響が出ることがあります。

政府の意識が変わらない限り、この状況は改善しません。また、トップにいる事務総長が範を垂れることも必要です。現在は事務総長の権限に多くの制約が課されています。加盟国が強い事務総長を望んでいないためですが、事務総長選任の際の複雑な駆け引きのプロセスは「最大公約数」の選択につながりかねません。

明らかに必要な改革が進まないのは、グローバリゼーションが急速に進み、国家の力が縮小する中で、狭い意味での国益の追求と、「独立独歩」の傾向がともに強まるというパラドックスがしばしば生じているためです。皮肉とはいえ、こうした非生産的な要因が、今日の世界政治の現実です。「現実的政治」が、明らかに必要な変革のいくつかを阻んでいますが、それでも私たちは、国連を強化する方途を見出さねばなりません。紛争が絶えない今日の世界で、国連はこれまでにも増して必要とされているからです。

乗数効果をもたらすアイデアも、いくつか出されています。

  • 事前選抜プロセスを導入し、事務総長選任の手続きを変更すること。最終的には政治的決定が必要となるものの、このアプローチを採用すれば、有能かつ経験豊富な候補者の選任を確保できます。
  • 事務総長の再任を不可としたうえで、その任期を現在の5年よりも長くすること。そうすれば、現職者の権限が増し、加盟国からの不当な圧力も受けにくくなります。

著者について

マーガレット・ジョーン・アンスティー氏は、女性として初の事務次長補に抜擢されたほか、国連ウィーン事務局長も務めました。