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元国連事務総長 ダグ・ハマーショルド

UN Secretary-Generalダグ・ハマーショルド氏は、1953年4月10日から1961年9月18日にコンゴでの和平ミッション遂行中、搭乗機が墜落して事故死するまで国連事務総長を務めました。ハマーショルド氏は1905年7月29日、スウェーデン中南部のヨンショーピングに生まれました。第一次世界大戦中にスウェーデン首相を務めたヤルマル・ハマーショルド氏とその妻、アグネスM.C.(旧姓:アルムクヴィスト)の4男として生まれた同氏は、父親が知事を務めたウップランド地方の大学都市ウプサラで育ちました。

18歳でカレッジを卒業し、ウプサラ大学に入学しました。フランス文学史、社会哲学および政治経済を専攻し、2年後に優秀な成績で文学士号を取得しました。その後3年間、同大学で経済学を学び、23歳のときに経済学修士号を取得しました。さらに2年間勉学を続け、1930年に法学士となりました。

その後、ハマーショルド氏はストックホルムに移り、政府の失業問題委員会の秘書官となりました(1930~1934年)。これと並行して経済学の博士論文「Konjunkturspridningen」(景気循環の展開)を執筆しました。1933年、ストックホルム大学にて博士号を取得し、同大学で政治経済学の助教授を務めました。

スウェーデン国立銀行の秘書官を1年間務めた後、31歳で財務事務次官に就任しました。1941年から1948年までは国立銀行取締役会会長も兼務しました。取締役会のメンバー6名は議会が任命し、会長は政府が任命しますが、財務事務次官を1人で兼務したのは同氏が初めてです。

1945年初めに財政・経済問題に関する内閣府顧問に任命され、特に第二次世界大戦の結果として、大戦終結後に生じた様々な経済問題を処理するための政府案の策定および調整にあたりました。就任中、ハマーショルド氏はスウェーデンの財政政策策定で重要な役割を果たしました。また米国や英国をはじめとする諸外国との貿易・金融に関する一連の交渉を主導しました。

1947年に外務省に入省し、外務次官として経済問題全般を担当しました。1949年に外務省の事務局長に任命され、1951年には無任所大臣として入閣しました。実質的な外務副大臣として、特に経済問題と緊密な経済協力のための多様な計画に取り組みました。

1951年から1952年にパリで開かれた国連総会第6回通常会期のスウェーデン代表団副議長を、また1952年~1953年にニューヨークで開かれた第7回会期国連総会のスウェーデン代表団議長代理を務めました。

ハマーショルド氏は社会民主党内閣で任務を果たしましたが、政治的な独立性を主張し、どの政党にも決して加わりませんでした。

1954年12月20日、スウェーデン・アカデミー会員となりました。以前に父親が務めていたアカデミーでの地位の後任として選出されました。事務総長に2期選出されたハマーショルド氏は安全保障理事会の推薦により、1953年4月7日に開かれた国連総会において、全会一致で国連事務総長に任命されました。1957年9月にはさらに5年間の2期目の任期が全会一致で再任されました。

事務総長在任中、ハマーショルド氏は戦争回避に尽力し、国連憲章に定める目的を遂行する中で国連に与えられた様々な責務を遂行しました。

中東に関する同氏の実績としては、イスラエルとアラブ諸国との停戦合意を支持し、同地域の状況改善と和平に向けた進展を推進する外交活動の継続、1956年の国連緊急軍(UNEF)の創設と創設後の運営管理、1957年のスエズ運河再開通とスエズ危機の平和的解決の支援、国連レバノン監視団(UNOGIL)の設立と運営、1958年のヨルダンにおける国連事務総長特別代表事務所の開設などが挙げられます。

1954年12月30日~1955年1月13日にかけてハマーショルド氏が北京を訪問した後、朝鮮戦争に国連軍として従軍して捕虜となった米国人パイロット15名が中国から釈放されました。ハマーショルド氏はまた、アフリカ、アジア、欧州、南北アメリカ、中東の多数の国々を訪問し、特定の任務の遂行や、国連加盟各国高官と親交を深め、様々な地域の問題の把握に努めました。

ハマーショルド事務総長はこうした訪問の一環として、1959年12月18日から1960年1月31日にかけてアフリカの21の国と地域を訪れました。後に「調査と情報収集のための厳密に職業上の旅」と記しているこの訪問で、「今日のアフリカにおけるあらゆる種類の政治的責任を持つ見解の断面」を把握することができたと述べています。

その後1960年には、7月12日にコンゴ民主共和国のジョセフ・カサブブ大統領とパトリス・ルムンバ首相からコンゴ支援のため国連軍「緊急派遣」を要請する外電を受けると、ハマーショルド事務総長は翌7月13日に開いた安全保障理事会の夜間会合で演説し、この要請に「即刻」応えるよう安全保障理事会に要求しました。安全保障理事会の対応を受けてコンゴ国連軍が創設され、事務総長自身も国連の活動に関してコンゴに4回出向いています。最初の2回のコンゴ訪問は1960年7月と8月でした。翌年1月には人種問題に関する別の任務で南アフリカ連邦に行く途中でコンゴに立ち寄りました。4回目のコンゴ訪問は9月12日に出発したものの、搭乗機の墜落による事故死という形で幕を閉じました。